ハヤカワミステリ文庫

「ミステリマガジン700[海外編]」

日本一位、世界二位の歴史を誇るミステリ専門誌“ミステリマガジン”の創刊700号を記念したアンソロジー“海外篇”。1956年の創刊当時から現在に至るまでの掲載短篇から、海外の最新作を紹介し続けてきたからこその傑作。全篇書籍未収録作。 A・H・Z・カー/シャーロット・アームストロング/フレドリック・ブラウン/パトリシア・ハイスミス/ロバート・アーサー/エドワード・D・ホック/クリスチアナ・ブランド/ボアロー&ナルスジャック/シオドア・マシスン/ルース・レンデル/ジャック・フィニイ/ジェラルド・カーシュ/ピーター・ラヴゼイ/イアン・ランキン/レジナルド・ヒル/ジョイス・キャロル・オーツ

読んだことのある作家もない作家も、これだけの未収録短編を集める企画力はすごいです。ほぼ全部がおもしろかったです。シニカルな筆致や幻想的な流れ、作風が違っても「人間」を浮かび上がらせているのです。ちなみに15人のうち読んだことのある作家は、わずか5人でした。読んでみたい作家がたくさんいますね。

アンジェラ・マーソンズ

「サイレント・スクリーム」

私立校の校長が殺害される事件が発生。現場の近辺には犯人によるものと思われる不可解な放火が。女性警部キムは、被害者がある荒れ地の発掘調査に関心を示していたことを突き止める。その土地の一画には被害者がかつて勤めていた児童養護施設が残されていた。十年前に火災で閉鎖された施設の実態を追うキム。そこに第二、第三の事件が起き捜査は難航する。

キムの強い姿勢と勘の良さが、閉塞する捜査に風穴を開けます。ここまで徹底すると、小気味いいですね。上部の指示に従わず、しかし同僚たちへの配慮がある。常に事件のことが頭から離れない。自身の生い立ちにフタをして、バイクや車を疾走させます。展開も早く、切り口もいいです。表情を見る能力に長け、心の裏を見る魅力的な女性刑事です。シリーズが翻訳されていないのが残念です。

エイドリアン・マッキンティ

「コールド・コールド・グラウンド」

暴動に揺れる街で起きた奇怪な事件。被害者の体内からはオペラの楽譜が発見され、現場には切断された別人の右手が残されていた。刑事ショーンは、テロ組織の粛清に見せかけた殺人ではないかと疑う。そんな折「迷宮」と記された手紙が彼に届く。それは犯人からの挑戦状だった。武装勢力が乱立し、紛争が日常と化した80年代の北アイルランドで、ショーンは複雑に絡まった謎を追う。

車に乗り込むたび、爆弾が仕掛けられてないかを確認するショーンに、常に危険に取り囲まれていることを実感させられます。人種だけではなく、カソリック系住民への迫害もあります。社会状況がしっかりと描かれていて、その中での捜査の大変さは現代からは想像を絶します。2件の事件の他にも絡み合う謎を解き明かしていく手腕も、読ませる力もなかなかです。

キャサリン・マーシュ

「ぼくは夜に旅をする」

内気な14歳のジャックは交通事故に遭ってから、不思議な体験をするようになった。人が消えるのを見たり、 奇妙な会話を聞いたりするようになったのだ。考古学教授の父に診察を勧められ、ニューヨークを訪れた ジャックは、グランドセントラル駅で謎の少女ユーリに出会う。ユーリといっしょに向かった駅の地下9階は、 死者の世界への入り口だった。8年前に謎の死をとげたジャックの母を探そうと、二人は地下の住人に話を きいていく。だが、汚職刑事クラバーと地獄の番犬で頭が3つあるケルベロスが二人を追いはじめた。

不思議な関わりを持ったユーリの複雑な女の子の心理を知ることで、少しづつ亡くなった母と父の心を理解 しようとするジャックの成長物語です。普段は内気なジャックが、行動的になってのびのびと死者の国を 探索していく描写が、夢のように美しく感じられます。死者の国で暮らすゴーストたちが、陽気で明るい 雰囲気を持っているのも、冒険を楽しめる背景でしょう。元の世界に戻ろうと必死になる姿が、いいですね。

ヘレン・マクロイ

「殺す者と殺される者」

心理学者のハリー・ディーンは思いがけない遺産を相続し、大学教師を辞め亡母の故郷クリアウォーターへと移住した。 最愛の女性シーリアは人妻となっていた。隣の土地で新生活を始めたハリーの身辺で、異変が続発する。 消えた運転免許証、差出人不明の手紙、謎の徘徊者。そしてついには、痛ましい事件が起きる。

1957年の作品の新訳版です。冒頭から巧みに敷かれた伏線が、大きく揺れラストに収斂して行きます。 一人称によるストーリー展開のうまさが、時代を超えた驚きを感じさせます。時間に取り残された一途な男の哀しい 悲劇とも見えますが、そのことを認識できない理由がすとんと胸に落ちると、全く別な物語に変貌します。 読みながら感じる違和感の謎が次第にに明らかになるのは、当時ではかなり斬新なものだったでしょう。 記憶が人間の人生を作っているという、作者のメッセージを受け取りました。

ヘレン・マクロイ

「幽霊の2/3」

出版社社長の邸宅で開かれたパーティーで、人気作家エイモス・コットルが、余興のゲーム「幽霊の2/3」の 最中に毒殺されてしまう。招待客の一人、精神科医のベイジル博士が、エイモスの妻の女優ヴィーラ、 エージェント夫妻、出版社社長夫妻、被害者に好意的な文芸批評家と逆の立場を取る同業者から事情を聞いて まわると、次々に意外な事実が明らかになる。アル中患者だった過去を持つエイモスの印税収入などを取りまく 錯綜した人間関係にひそむ謎と、毒殺事件の真相に迫る。

50年前の新訳版です。アル中患者だった過去が明らかになるラストに、もうひと捻りがありうまいです。出版界の その頃の事情を皮肉たっぷりに描いている辺りも、おもしろいです。2作目ですが、この時代にこういう作家がいたとは 驚きでした。クラシカルな雰囲気が、かえって新鮮に思えます。

パオロ・マウレンシグ

「狂った旋律」

ロンドンの楽器オークションで、17世紀チロルのバイオリンを入手したコレクターの元に、 小説家を名乗る男が訪れ、実在した持ち主の数奇な物語を聞かされた。ウイーンのレストランに 現れた、マントに山高帽のいでたちのバイオリン弾きが、見事な演奏を披露して小銭を稼いだ。 その場にいた小説家は、難曲のバッハの「シャコンヌ」を注文したが、彼はそれさえも完璧な 演奏をして姿を消した。姿を求めて街を彷徨い、再び出会った彼・イエネー・ヴォルガは、父 から与えられたバイオリンで子どもの頃才能を見いだされ、ヨーロッパで名声を博した音楽院に 進み、運命的な親友・クーノと出会う。

ヨーロッパの街の空気や、ナチズムの影や、スパルタ式の音楽院の厳しい気配までも、眼前に 繰り広げられるようでした。妖しいまでの音楽、バイオリンの魅力に取り憑かれた天才の、 生い立ちへの劣等感も、意地悪な目を向けてくるクーノの屈折した思いも、描き切っていました。 壮大な時間の激流に身を任せるうち、ふっと現実がじつに危うい存在だと思い至るのです。 どこまでが現実、真実なのか。ラストは予想されるものの、ミステリ的な要素もありました。 背筋がぞくりとする、1冊です。

ウィル・マッキントッシュ

「落下世界 上・下」

目覚めると人々はみな記憶を失い、1万歩で回れる小さな島で食料もわずか。謎を解くため、フォーラーは世界の縁から飛び出し、見わたすかぎりの青空の中を落下してゆく。落ちた別の島で思いがけない人々と出会う。一方ピーターの世界は、戦争と生物兵器による疫病で壊滅の淵にあった。ピーターの夢の新技術は救いになるか。

虚空に浮かぶ小さな島という設定と、限りなく落下する異常な状態に惹きつけられて読み終えました。多少無理があるけれど、いずれ起こりうる未来かと思うと面白いです。フォーラーとピーターにわずかな希望が残されました。人間の技術の進歩は何を求めていくべきか、考えてしまいました。どこまでいっても、利害と争いはなくならないのでしょうか。そこは希望がほしいですね。

コーディ・マクファディン

【傷痕 上・下】

夫と娘を目の前で殺され、自らの顔も全身も切り刻まれたFBI捜査官・スモーキーは、 精神科医のセラピーを受けながら、復職するか自殺するかの瀬戸際にあった。夢にうなされる 朝、またも凄惨な事件を告げる電話に起こされた。親友のアニーが殺され、その体にくくり 付けられた娘のボニーが救出された。しかも切り裂きジャックの末裔とうそぶく犯人から、 スモーキーへの挑戦状が残されていた。復職の決意を固め、ボニーを引き取り、キャリーを 初めとする優秀な部下たちと捜査を開始する。

心身に受けた傷痕と折り合いをつけ克服していく、感情をコントロールしつつ論理的な思考展開が できる、スモーキーのキャラがいいですね。そして周りの暖かい人々。その大切な人を切り取って いく犯人への怒りが、捜査に駆り立てていくのです。テンポが速く、訳が読みやすいのか、原作が そうなのかはわかりませんが、無駄のない文章と構成がみごとです。次作の翻訳が楽しみです。

コーディ・マクファディン

「戦慄 上・下」

体に刻まれた深い傷跡は決して癒えることはないけれど、FBI捜査官スモーキーは、一緒に暮らすことに した幼く口を開けないボニーとの穏やかな暮らしを楽しむ余裕が出てきた。久しぶりの休暇を楽しんで いたが、16歳の少女サラが家族の惨殺現場に立てこもり、スモーキーに会いたいと言っていると連絡が入る。 ようやく救出したサラは、6歳で両親が殺されて以来、周囲で殺人事件が起こっていた。サラの日記には 「ストレンジャー」という人物がサラにつきまとい、凶行を重ねると描かれているが、事件の記録には 形跡は全くない。スモーキーはサラの心の闇を探りながら、ストレジャーの正体に迫っていく。

サラの日記を挿入することで、心の奥深いところへしっかりと光が当てられていきます。陰惨な犯行で 残虐だが、ホラーではなく、描かれているのは人間の心の残酷さかも知れません。人はどこまで邪悪に なれるのか、人はどこまでやさしくなれるのか。要点での細かな配慮があり、希望を残してくれます。 作家の怜悧な思考展開が、感情に溺れず、突き放さず、いいスタンスの取り方だと思います。それにしても、 最後までブレずに描き切るうまい作家ですね。次作も楽しみです。 ですね。

ヘニング・マンケル

「目くらましの道 上・下」

夏の休暇を楽しみに待つ警部ヴァランダーは、農夫からの電話で呼び出された目の前の菜の花畑で、少女が焼身自殺を した。ショックに追い打ちをかけるように、殺人事件発生の通報が入った。被害者は元法務大臣で背中を斧で割られ、 頭皮の一部を髪の毛ごと剥ぎ取られていた。必死のヴァランダーたちの捜査をあざ笑うかのように、次々に事件が起きる。 現場の証拠や観察の勘から、連続殺人事件の匂いを嗅ぎ取ったヴァランダーは、決して有能とは言えない持てる能力 すべてをかき集めて推理を展開する。だがまた事件は続き、さらにヴァランダーにも魔の手が伸びる。

猟奇殺人とも言うべき悲惨な事件を扱いながら、ヴァランダーが父と娘を思う気持ちと葛藤があり、犯人像も人間性を 持たせた描き方が、大変魅力的です。北欧のスウェーデンの理想的な社会福祉国家で起きる、悲惨な事件で ありながら、さりげない風景や行き交う車にまで美しいと感じさせる空気感があります。人を思う気持ちの強さに、 胸を打たれます。久しぶりにいい作家と出会えたという感じです。シリーズもののようですので、何作か読んで みたいと思います。

ヘニング・マンケル

「笑う男」

正当防衛とはいえ、人を殺したことに苦しむ警察官ヴァランダーは、うつうつとして仕事を休み、退職を決意するが、 そんな悩む彼を友人の弁護士が訪ねてきた。父親の交通事故死に腑に落ちない点があると言う。しかしヴァランダーは 相談に乗る余裕はなかった。その数日後、彼はその友人が射殺されたという新聞記事を見た。復職し、事件を追い始めた ヴァランダーが訪れた弁護士事務所の女性秘書が、自宅の庭に埋められた地雷から、かろうじて危機を救った。そして 彼の車には爆弾が仕掛けられていた。状況から推理したのは、ファーンホルム城という中世の城郭に住み、自家用 ジェット機で世界を駆け回る国際的な企業家であり富豪の男だった。しかし彼は各国の研究機関から名誉博士号を 贈られるほどのスウェーデン国内でも人望が厚い有名人だった。ヴァランダーは、まるで治外法権を持っているような この「笑う男」の真の姿に迫るべく悪戦苦闘するのだった。

長年の経験から鋭く研ぎすまされた直感と、納得するまで証拠を集めるヴァランダーの姿勢に好感が持てます。悩み ながら、社会の根源的な悲壮な事実と向き合う目の確かさが、魅力でしょう。全体がモノトーンですが、描かれる心の 葛藤に共感します。真っすぐに正義に向かう貴重な警察官像です。長編なのに、重さを感じさせず引きつけられます。 おもしろいです。次作も楽しみです。

ヘニング・マンケル

「タンゴステップ 上・下」

警察官・ステファン・リンドマンは舌ガンの宣告に動揺し休暇を取っていたが、退職した先輩警官・モリーンが無惨に 殺されたことを知る。恋人ともぎくしゃくしていた彼は現地に向かう。地元警察と協力しながらも個人的に 調査をしていく。聞き込みに廻り、現場を訪れる。そしてすぐ近くで第二の殺人事件が起きる。モリーンの娘・ ヴェロニカの登場で一層複雑な展開となる。

なぜモリーンは、人里離れた森の中で隠遁生活を送っていたのか。なぜ、残忍な殺され方をしたか。ステファンの 観察眼が次第に真実に近づいていく展開は、やはりおもしろいです。第二次世界大戦のナチス、そして現在もなお 息づくナチズムの信奉者たちが関っていることがわかってくる。 スウェーデン社会の闇の部分が、怖いです。 観察力を裏付けるための膨大な伏線が張られ、収斂していく予感を感じると、一気にラストへと走ります。 必死にたどり着いた人間たちのもの悲しさが、ひたひたと打ち寄せてきます。読み始めは長いなと思うのですが、 終わってみるとあっというまでした。

コーマック・マッカーシー

【血と暴力の国】

メキシコ故郷近くで、モスは麻薬密売人の銃撃戦のあとに遭遇する。数人の死体と、車の 中には莫大な札束が残されていた。モスは金を持ち去り、追っ手の殺人者から必死の逃走が 始まった。保安官ベルは、次々に起こる殺人事件とモスの関係を知り、追いかけていく。

会話のカギ括弧がない文章は、意図的とは言え、読みにくいです。地の文との境界がぼやけ、 読み手がのめり込むのを拒否し、距離感を強いられます。シュガーというキャラクターや、 保安官もモスも、同じスタンスのせいかモノクロ映画のように感じられます。かなり凄惨な シーンも、さらりと読めるのはそのせいでしょう。一気に読ませてしまう力があり、 展開はかなりうまいと思います。

コーマック・マッカーシー

「ザ・ロード」

破滅が間近い世界では、灰が降り積もり寒くなっていく。動物や植物も死に絶えている。 生き残ったわずかな人間が、南を目指す。父親と幼い息子が、カートにわずかな荷物を 乗せて歩く道を遮る者がいる。盗賊や人狩りが横行する中を、必死に生き延びようと、 二人は身を隠しながら進んでいく。時にはほかの弱者を助けようとする息子の天使の心を、 どこまで維持できるのか。父は最後まで、息子に火を運び続けることを託そうとする。

おそらく近未来を見るような、食料も衣服も、そして希望も見いだせない世界に、胸を 打たれます。モノトーンの物語に、引込まれてしまいました。訳の黒原敏行もみごとです。 マッカーシーは2作目ですが、すごい作家ですね。

コーマック・マッカーシー

「すべての美しい馬」

テキサス州の牧場の少年・グレイディは、祖父の死後すっかり無気力になった父と牧場を嫌っている母を見て、 自分の道を見つけようと親友・ロリンズと共に馬に乗りメキシコへ不法入国する。鹿毛馬に乗り二人の前に現れた ブレヴィンズと、一緒に旅をした。牧場で雇われ、野生の馬を馴らす。だが牧場主の娘・アレハンドラに恋を したことで怒りを買う。

壮大な大自然を感じながら旅をし、牧場で働き、自分が何をしたいのか見つけていくグレイディの、成長物語 です。その中でも、馬との交流や愛情あふれる描写がすごいです。死の瀬戸際まで行き、立ち上がる姿も印象的 です。ストーリーはさらりとした筆致で進んでいくので、あっというまに読めてしまいます。

ギヨーム・ミュッソ

「ブルックリンの少女」

人気小説家のラファエルは、結婚式を前に婚約者のアンナと南フランスで休暇を楽しんでいた。なぜか過去をひた隠しにするアンナに彼が詰め寄ると、観念したアンナが差し出したのは衝撃的な光景の写真。そして直後にアンナは失踪。友人の元警部、マルクと共にラファエルが調査を進めると、かつて起きた不審な事件や事故が浮上する。秘められた半生とはいったいなにか。

結婚式を放り出して姿を消すアンナ。自分以外の一人の人生を理解することが、ラファエルにとってどれほど思考回路を広げていく苦しみを味わい、全てを受け入れる辛さに苛まれることか。日常で、人を理解する経験はそれほど多くはありません。ほんの少し、手助けになる感じです。いや〜、それにしても、どんなに人の表面だけの付き合いをしていることかと、思い知らされます。

デルフィーヌ・ミヌーイ

「シリアの秘密図書館」

2015年、シリアの首都ダマスカス近郊の町ダラヤでは、人々がアサド政権軍に対抗して籠城していた。彼らはテロリストと報道されていたが、実際は自由を求める人々だった。建物が破壊され、隣人が犠牲となり、食料や水さえ絶たれる中、彼らは瓦礫から本取り出し、地下に「秘密の図書館」を作った。知識を暴力への盾として闘おうとしたのだ。図書館を作った若者たちにインタビューする機会を得た著者は、クッツェー、シェイクスピア、サンテグジュペリといった作家の本について彼らと語り、内戦に奪われた日常や、図書館によって生み出された希望を記録していく。

ルポルタージュですが、著者は現場に足を運んではいません。封鎖された町には誰も近づけないからのです。けれど、外部に開かれた窓が一つだけ残っていました。インターネット。隔てる距離と自分の無力さにもどかしい思いもしつつ、書き綴られました。それまで読書の習慣がなかった人たちも本を手に取ります。さらなる無残すぎる現実が押し寄せます。本は何を、もたらしてくれたのでしょうか。深い思いにしばらく動けませんでした。

デイヴィッド・マレル

【真夜中に捨てられる靴】

老齢を理由に業界から消されようとしている、かつての名脚本家が、力のない青年の名で再び 名声を勝ち取ろうとする。「ゴーストライター」

難病に侵された父を、冷凍保存する息子の未来に待っていたものは・・・。「復活の日」

深夜、教会前に捨てられる靴。真新しい紳士靴やハイヒール。やがて人間の足の入ったブーツ。 靴と、犯人探しを止められなくなってしまった警官。「真夜中に捨てられる靴」。

8編の短編集です。普通の暮らしのシーンが、ふっと濃い黒々とした影を落とし、だまし絵の ように別な顔を見せます。短編のおもしろさが味わえます。タイトルに惹かれて読みましたが、 表題作だけでなく、全体としての表情がいいですね。

デイヴィッド・マレル

【廃墟ホテル】

都市探検者と自称する、大学の歴史学教授と学生3人。廃墟好きの一行と共に、バレンジャーは かつての豪華ホテルに潜入した。崩れ落ちる床や階段などの建物を探索するうち、秘密の通路を 発見する。病気のため生涯引き篭もって暮らした大富豪は、全客室に通じる秘密通路から宿泊客の 生活を覗き見ていたのだった。そして客室で起きた殺人、虐待といった惨劇の痕跡を保存したまま ホテルを閉鎖していた。驚く一行の背後に、怪しい影が忍び寄る。

スピーディに展開するホラー系です。単なる探検ものから、後半はアメリカ映画らしい派手な アクションで、視覚を刺激されます。楽しめるのは確かですが、それだけという感じです。

パトリシア・マコーミック

「私は売られてきた」

ネパールの山村の13歳の少女ラクシュミーは、貧しいながらも優しいアマ(母さん)と赤ん坊の弟と賭け事ばかりしている義父と子ヤギと平和に暮らしていた。だが義父は貧困ゆえに、わずかな金でインドの売春宿に売られてしまう。待っていたのはあまりにも過酷な日々だった。そんな中でもラクシュミーは、同じく暮らす女性の息子から言葉や読み書きを教えてもらう。

ネパールから売られる少女は、毎年約1万2千人という取材に基づいた衝撃的な小説でした。シンプルな文章でラクシュミーの心と理性とプライドを描き、深い詩情さえ感じさせます。ラストの救いも、勉強好きなラクシュミーならではの劇的なものでした。昔の日本でも、そして今もなお世界中で起きている貧困や、社会や世界の仕組みを知りながらに、何もできない自分がいます。

パット・マガー

【七人のおば】

結婚し渡英したサリーの許へ届いた友人の手紙で、おばが夫を毒殺して自殺したことを知らされた。が、彼女にはおばが七人いるのに、肝心の名前が書いてなかった。サリーと夫のピーターは、おばたちと暮らした七年間を回想しながら、はたしてどのおばなのか、見当をつけようと試みる。

おば達の関係が濃厚で、女姉妹が集まる世界は引いてしまうところがあります。キャラに説得力が あり、一家を統制して名誉を守っていこうとする毅然とした画策が、微妙なバランスを保って います。サリーと夫が、離れたところで描き出す構成は、あまり生きていず削除してもいいかも 知れません。小事件を緩やかに考察していくだけなので、ミステリ面は弱く人間関係を描いた作品 だと思います。

パトリック・モディアノ

「失われた時のカフェで」

パリ。いまもまだ僕には聞こえることがある。夜、道で、僕の名前を呼ぶ声が。ハスキーな声だ。シラブルを少し引っぱった発音で僕にはすぐ判る。ルキの声だ。振り返る、でもそこにはだれもいない。夜だけじゃない。ひと気の引いたこんな夏の午後。でももうよく僕らには判らない、一体どの年の夏に自分がいるのか。もう一度、以前とおなじに全ては始まる。おなじ日々、おなじ夜。おなじ場所、おなじ出会い。

カフェ「ル・コンデ」に集う常連客たちの中で、ひと際目を奪われる女性ルキを、通称ロランで作家・モディアノの視点で穏やかに静かに語られます。パリの街や空気感を、あるいは常連客の一人を細やかに語ります。またルキの視点で彼女が望んだ世界、見せたい世界が、語られます。こんな静謐な文章をどこかで読んだことがあるなと、心地よく感じながら読み進めました。皮肉にも村上春樹の初期の作品です。併録「『失われた時のカフェで』とパトリック・モディアノの世界」も興味深かったです。

G・ガルシア=マルケス

【エレンディラ】

14歳のエレンディラは、家の暮らしを支え、祖母の面倒を見ていた。祖母はベッドに 横たわったまま、孫娘をこき使っていた。ある夜、火事で家を失った。その弁償のために エレンディラは男を取らされることになる。「無垢なエレンディラと無情な祖母の信じ がたい悲惨の物語」

6つの短編と中編ひとつです。中世の、とんでもなく不思議な世界という感じがします。 「無垢なエレンディラ・・・」が印象的です。古川日出男「アラビアの夜の種族」を、 思わせますね。

G・ガルシア=マルケス

【百年の孤独】

舞台は中世。ホセ・アルカディオは村を訪れるジプシーたちから、新しい世界の情報を仕入れ、 マコンドの村を作り上げていった。妻のウルスラは家族の世話や、暮らしに追われながら、 しっかりとすべてのものを記憶していった。6世代に及ぶ一族の、逸話を。

ホセ・アルカディオとウルスラ夫妻の一族の、長い長い歴史を読むことになってしまいました。 似た名前、同じ名前が出てくるため、初めて家系図で名前を確認しながら読みました。 ミステリーではないので、あえて結末に触れると、百年前にジプシーの長老メルキアデスによって 羊皮紙に記されたものだとわかるのです。
老婆(ウルスラ)が目にしたものを、幾日もかけて語り続けたように感じさせます。様々な種類の エピソードが目の前で繰り広げられるおもしろさに引かれ、段落の少ない文章を苦労しながらも 読むことができました。人間味あふれるキャラに向けられる視線に、熱さを感じます。作家の 壮大な構成力とストーリーに、圧倒される作品でした。

ギジェルモ・マルティネス

【オックスフォード殺人事件】

アルゼンチンからオックスフォードに留学した私は、数学者セルダム教授とブロンソン教授の いる、数理研究所に通うことになった。ブロンソン教授の紹介で、看護師ローナとテニスで出会う チャンスにも恵まれ、順調な滑り出しと思われた。だが、下宿先の数学者の妻・イーグルトン 夫人が殺害され、第一発見者になってしまう。一緒にいたセルダム教授のもとには、謎の記号が 書かれた殺人予告メモが届けられる。警察の容疑は、孫娘のベスに向けられる。そして起きる、 不可能連続殺人。

セルダム教授とふたりで謎を追っていく、という一見どこにでもあるストーリーが、どこか 不確かな疑問を頭のどこかに感じてしまいました。それが伏線なのかどうか、自分の勘を最後 まで確認できませんでした。設定を数学にしていますが、それも書き割りのひとつに過ぎない のか。考えながら読んでしまう、どこか不思議な味のミステリーです。

マイケル・マーシャル

【死影】

両親が自動車事故でなくなり、葬儀に出席するためにウォードは、久しぶりに家に戻ってきた。 葬儀の手配も父の不動産会社の整理も、手際よくすべて弁護士のデイヴィッズが託されていたと いう。父がいつも座っていたイスから、隠されていたメモが出てきた。「ウォード、わたしたちは 生きている」と。行方を暗示するビデオも見つかった。もとCIAだったウォードは、捜査を始める。 一方、連続殺人犯に娘を殺され、刑事を辞めたザントは、酒に溺れていた。だが再び、事件が 進行していることを知らされ、復讐を果たそうと動き出す。

二人の追跡する先が、同じ犯人にたどり着く。ひとつのパターンですが、ウォードの誕生の謎が じつにうまく興味をかきたててくれます。誘拐されたセーラと犯人とのやりとりも、怖さを感じ させます。なかなか、うまい作家ですね。

フィリップ・マーゴリン

【女神の天秤】

リード・ブリックス法律事務所の平弁護士・エイムズは、小さな訴訟を担当していた。 上級弁護士スーザンは、対するゲラー製薬訴訟の原告弁護団のフリンに開示する書類が 間に合わず、手伝ってほしいとエイムズに声をかけてきた。ひと晩で読み終えられそうにない、 膨大な資料だった。法廷で、ゲラー製薬が不利な立場に立たされるカイダノフ博士のレポートが 取り上げられた。エイムズは読んだ記憶がないにもかかわらず、スーザンの異議申し立ても 却下され、責任を取らされることになってしまう。期限付きの解雇だった。

何かがおかしいと感じたエイムズは、カイダノフ博士を訪れるが、まるで強盗に荒らされたような 部屋だった。同僚のケイトと調査を開始するが、事務所の代表ブリックスが殺され、エイムズに 容疑の目が向けられる。

窮地に立たされた弁護士の必死さより、女性弁護士ケイトが光っています。トカゲの尻尾切りの、 尻尾役のために雇うこともあるアメリカ法曹界の冷徹さに、むしろさもあろうと感心させてしまう のです。視点が次々に変わり過ぎるので、エイムズが主人公ではないとすれば、それも有りかなと 思うのですが。読ませるコツを、知っている作家です。

T・J・マグレガー

【蜘蛛の誘い】

弁護士のフランク・ベネディクトは、大物顧客の獲得に失敗し、事務所の共同経営者になる夢が 消えようとしていた。怒りを胸にして車での帰り道、雨の中、行く手を遮った車にぶつけてしまう。 怒りにまかせてバックし、再度追突させた。なにもかもが自分を邪魔していると感じていた。 妻のアニタは、事故現場から逃走してきた夫に、未来を失う怖さから次第に協力していく。 事故でお腹の子と夫を失い、奇跡的に助かったFBI捜査官チャーリーは、支局のウェルズたちの 捜査に加わり、犯人を捜し出そうとする。手を触れると、人間の思念を読み取る力のある 元捜査官・ローガンも、呼び出されていた。

自分を不利にする者への凶暴な怒りの爆発という、犯人の心理描写が怖いです。妻のアニタの 裏切りを恐れ、事務所の同僚もすべて信用できない。恐ろしいまでの孤独です。ローガンの 特殊能力は押さえて描いて、あまり捜査の前面には出てきません。力点はあくまでも、地道な 捜査と犯人心理にあるのです。事故現場から犬を拾った老女が、救いとなります。 多少、散漫な印象を受けますが、ストーリーテラーとしてはうまい作家です。ラストのはらはら させ方も、手慣れている感じがします。

【エヴァーグレイズに消える】

医師のアンディと妻レニーと娘のケイティは、エヴァーグレイズでキャンプする 予定だった。湿原をカヌーで進むうちに迷い、映画のロケセットのような場所に たどり着いた。小屋につながれていた、黒のラブラドール犬の鎖を外してやる。 その時奇妙で激しいハム音が始まり、周囲の空気が音を立て光が炸裂した。

3年前、ローガンと夫のタイラーは、3万ドルの報酬で革新的な装置の実験の 被験者になった。透明人間になったのだ。閉じ込められたタイラーは実験動物並みの 扱いをされ、逃げ出したローガンは、ナッシュたちに見つかれないように暮らして きた。

透明人間への思い入れの強い作品です。描写に美学さえ感じさせます。設定はうまく 作られていて、文章もうまいので読ませてくれます。でも、ちょっときれいなSF映 画を見ていたような味わいです。複数の受賞作家への期待が高過ぎたかもしれ ません。

エディー・ミューラー

【拳よ、闇を払え】

ヘビー級ボクサー・ハックから呼び出され、スポーツ記者・ビリーは彼のマネー ジャー・ジグの部屋を訪れた。ジグを殴ったら机に頭をぶつけて死んだという。 大事な試合を前にして、とっさの判断で二人で死体を運び出し埋め、旅行かばんで 偽装工作をした。

行方を捜査していると近づいてきたオコナー刑事は、執拗にビリーを誘導しようと した。ビリーはいつも通りにボクシングの取材記事を書く仕事を続けたが、ハック はおびえていた。ハックの妻・クレアから食事に誘われ、ビリーはベッドインして しまう。

ジグの死体が発見されたとオコナー刑事が告げ、死因が絞殺だったという。ハックの あやまって殺したという言葉が、急速に別な方向へ滑り出していった。

ボクシングの熱狂と、周囲を取り巻く思惑が渦巻く世界。最初の対処の誤りが、失脚 への一歩だったのを、かろうじてかわしていくビリーの健闘がおもしろいです。

ダイナ・マコール

「雷鳴の記憶」

雷鳴とチャイムの音が響く電話を受けた女性たちが、次々に謎の死を遂げる。 共通点は小学校のクラスメイト・・・。

タイトルやコピーから、想像がついてしまったけれど最後まで読ませるくらいは おもしろかったです。でも、もっとミステリアスにできるのに。

ディエゴ・マラーニ

「通訳」

国際機関で通訳サービスの局長・フェリックス・ベラミーは、妻に去られても、管理の仕事も なんとかこなしていた。そんな時、ドイツ語の通訳担当主任・シュタウバーは、5カ国語を話す 優秀な職員だったが、精神を病んでいるというバーヌンク博士の診断に従い辞職を勧告した。 だが、全生物が話す普遍的言語を発見しかけていると、執拗に食い下がってきたのち、突然失踪 した。次にはベラミー自身が、奇妙な言葉を叫ぶ病気にかかり、バーヌンク博士の回復プログラムを 受けることになる。その治療に疑問を持ったベラミーは、シュタウバーの行き先を辿っていく。

足元から揺らぎ、自ら狂気の世界に飛び込み、さまようベラミーは果たして狂人になってしまった のか。迷走し様々な言語に翻弄される姿は、じつに現代的な課題を内包しています。シュタウバーを 名前ではなく「通訳」と呼ぶのは、あくまでも役割としての存在を強調しているようです。言葉の 迷宮をさまよい、最後に辿り着いたのは、少し救われる反面、物語のスケールを矮小化してしまった 感じがしてもったいない気がします。それにしても言葉の持つ、驚きの新たな一面を見せられました。 別な話になりますが、たまたまTVで、国際会議での同時通訳ブースのレポートをしているのを見ました。 相当な集中力が必要になり、20分が限界だそうです。そして休憩にはチョコレートを食べ、速やかに 脳に栄養を送るということです。華やかなバイリンガルな活躍も、大変な仕事かもしれないと思ったの でした。

チャイナ・ミエヴィル

「都市と都市」

ふたつの都市国家「ベジェル」と「ウル・コーマ」は、欧州において地理的にほぼ同じ位置を占める、モザイク状に組み合わさった特殊な領土を有していた。ベジェル警察のティアドール・ボルル警部補は、二国間で起こった不可解な殺人事件を追ううちに、封印された歴史に足を踏み入れていく。

国民は互いの国を見ないように教育されていて、それを違反すると、超越的組織〈ブリーチ〉に拘束されてしまう特殊な世界でした。ベジェル用語の説明が多く、とっかかりは難解な感じがします。会話での構成が多いので、かろうじて読み進められました。ただ、わがまま読者のわたしは、地の文章で読ませてほしいので、会話が冗長に感じられます。少しマニアックな作品かも知れません。

フレデリック・モレイ

「第七の女」

月曜日、事件の幕は切って落とされた。ソルボンヌ大学の女性講師が惨殺死体で発見されたのだ。 ベテランのニコ・シルスキー警視も思わず戦慄するほどの惨状だったが、それはほんの序の口に 過ぎなかった。火曜日、はやくも犯人は第二の凶行におよぶ。現場には被害者の血液で書かれた 「七日間、七人の女」を殺すというメッセージがあった。ニコの指揮のもと必死の捜査を繰りひろげる 警察を嘲笑うかのように、姿なき殺人者の犯行は続く。そして犯人は、ついにはニコの家族にまで 及ぶ。

フランスのミステリは、サイコ色が濃いのが多いのでしょうか。強烈な印象を残します。その割に ニコ警視や警察の描き方が、判事の過去など興味深いものはありますが、どこかで読んだ人物設定で 物足りなさが残りました。引込まれて読める、レベルが高い作品だとは思います。

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