ジョー・イデ

「I Q」

ロサンゼルスに住む黒人青年アイゼイアは「IQ」と呼ばれる探偵だ。大金が必要な事情から、腐れ縁の相棒の口利きで大物ラッパーから仕事を請け負うことに。だがそれは「謎の巨犬を使う殺し屋を探し出せ」という異様なものだった。奇妙な事件の謎を全力で追うIQ。そんなアイゼイアが探偵として生きる契機となった凄絶な過去とは。

差別社会の底辺で暮らすアイゼイアは、仕事を続けるうちに深い闇にはまって行きます。ロワールな現場も多いのですが、なぜか惹きつけられて読んでしまいました。アイゼイアの思考に共振させられたのかも知れません。面白い作家です。他の作品も読んでみたいです。

カズオ・イシグロ

【わたしを離さないで】

ヘールシャム出身の介護人・キャシーは、「提供者」の世話を12年近くも続けていた。生まれ育った施設ヘールシャムの少女時代を、いまでもよく思い出す。親友のルースとトミー。ささやくように交わされる噂話に、心を揺らした日々。授業の地理の説明にない神秘的な場所・ノーフォークは「遺失物保管所」だというたあいない冗談。図工の作品に熱心なルーシー先生の不可思議な言動や、時折施設を訪れるマダム。本当に愛し合うカップルには、猶予があるという不確かな言い伝え。いくつものシーンが、やがてある「真実」に行き着いた。

青春のページを切り取ったフィルムを、巻き戻して見ているような現実と未来世界との倒錯感が、全編を貫いています。聖母的な立場のキャシーによって繰り広げられる記憶。少女から大人へと変貌していく過程の、もどかしい会話で行き違う心の有り様が、ひどく哀しみに満ちているのです。「真実」はストーリーの早い段階で想像はつくのですが、その立場の人が何を考え、何を希望にして生きていくのか。読者に想像させ裏切っていく手法は、切迫した空気を失速させずにラストを迎えます。重い課題を、たあいない青春のシーンの積み上げで切り取って見せるとは。イギリスの作家・イシグロさんはただ者ではありません。

カズオ・イシグロ

【わたしたちが孤児だったころ】

ケンブリッジ大学を卒業したクリストファー・バンクスは、探偵になろうとした。難事件を解決し、社交界でも名声を得ていった。国際連盟設立に貢献して賞賛を受けたサー・セシルと知り合う。彼が上海を行き来していることを知り、かつて暮らしていた上海のことを思い起こす。友達のアキラ、そして貿易会社の仕事をしていた父が、失踪し反アヘン運動をしていた母も続いて、行方不明となったのだった。バンクスは上海に戻り、改めて両親の失踪事件を捜査することにした。だが記憶をたどり、証言や記録を調べていくうち、とんでもない真実を知ることになる。

過去の誰かの言葉の記憶を、これほどに精緻に精査し構築していく作業は、事件を調べるというより物語を創作していくことと同じではないでしょうか。歴史の流れをも考えに入れ、両親の行動や言葉の意味を洗い直し、推理していくバンクスに、作者の像がゴーストのように重なって見えます。些細な出来事や言葉を、きっちりと積み上げていくことに作者の強い意志を感じます。伏線と、その収斂がみごとですね。

カズオ・イシグロ

【日の名残り】

執事として仕えている主人のファラディから、1週間の休暇をもらったスティーブンスは、かつての女中頭ミス・ケントンに会いにいくことにした。もちろん、仕事の依頼ができるかどうかを打診するためだった。スティーブンスはドライブをしながら、ダーリントン・ホールで最も長く仕えていたダーリントン卿の時代が、思い起こされた。

イギリスの、最もよき紳士の時代でもあった。国際会議が幾度も開かれ、多数の海外からのお客が十分に論議し、政治的外交的影響力を発揮できるよう、執事として全力を挙げた。政治家や軍関係者、各界の著名な名だたる人たちの印象に残る言動が、走馬灯のようにスティーブンスの脳裏を駆け巡った。

3作目のカズオ・イシグロさん。過去の記憶を再構築することで、執事としての自分を誇りと品位を保とうとしている老執事の、心を揺れをみごとに描いてみせてくれます。一人称の語りで進むので、まるで自分も一緒にイギリスの社交界の一端をかいま見たような感じになります。おそらく映像的にも華やかな世界が繰り広げられます。そのあわいにある、父とミス・ケントンとの記憶が交差し、仕事のみではない人間的な面の、欠落している陰にも光を当てています。それが、ラストへと繋がり美しい詩情を感じさせてくれるのです。文章や言葉の間にあるものを、味わって読みたい作品です。

カズオ・イシグロ

【遠い山並みの光】

悦子の娘が自殺し、葬式のため、下の娘ニキがロンドンから戻ってきていた。ニキと過ごすうち、昔のことを思い出し、記憶をはっきりさせておこうと思った。悦子はかつて長崎に住んでいた。夫とともに社宅に住み、妊娠していた。仕事で忙しく夫の父・緒方さんがしばらく逗留しても、夫は不機嫌だった。その頃の友人、佐和子は娘との二人暮らしで、その無愛想さが近所の噂になっていた。アメリカ人の恋人と、渡米することになっていたのに、ふいに彼が行方不明になってしまった。悦子はなにかと面倒をみたのだった。

初めての日本人が登場した、カズオ・イシグロさん。日常の会話を積み重ねることで、すき間に見え隠れしていたもうひとつの物語が、ある時点を境に、ふいに前面に出てきます。そのうまさはすごい作家です。映像的に浮かんでくる、くっきりと際立った人物像も、存在感があります。語り口も、きっちりと過去の会話や空気まで描いていく点も、格別な味わいです。ただ、日本人の名前や人物像が出てくると、どうにも座り心地が悪いのはわたしだけでしょうか。作品としてはいいできだと思いますが、たぶん日本を知らない作家の心に存在する日本、という域を感じるのです。イギリスの読者には、どう受け止められるのでしょう。

カズオ・イシグロ

【充たされざる者 上・下】

老ピアニストのライダーは、少年時代を過ごした町で地元のオーケストラと競演する「木曜の夕べ」のため、長旅をしてその地を訪れた。遅れて出迎えた老ポーター・グスタフの案内で、ホテルの部屋に入った。グスタフの話では、そのオーケストラはブロツキーがピアノを弾くという。だがライダーはその男を知らなかった。疲れて寝入っていたのを起こされ、支配人・ホフマンからのおしゃべりへの誘い、その息子から、旧市街地のハンガリアン・カフェで町の著名人たちとの交流を勧められた。

カフェではゾフィーという女性と、子どものボリスと出会ったが、どうにも記憶がなかった。しかし、一緒に歩くうち、1週間前に電話口で言い争ったことを思い出した。そしてゾフィーからアパートに帰ろうと誘われる。ライダーが「木曜の夕べ」に出席するまでに、途方もない寄り道があちこちに仕掛けられ、まるで夢の中であがいているような、展開をして行く。

ライダーの視点から描かれる、周囲の人々との会話が洪水となって、押し寄せてきます。読者も、一緒にそのとんでもない『夢の航海』に似たストーリを、泳ぐことになります。少しづつ奇妙なズレを抱えたまま。いままでの作品とは、傾向がはっきりと違います。奇妙で魅力的で圧倒的な会話で、想像をかき立てられる世界が、次々にねじれていくのです。まるでジグソー・パズルのピースを、当てはめていく過程のようです。延々、先の不確かな描き方は上・下で800ページでしかないのに、きつかったです。イシグロさんの新しい世界だということですが、同じ書き方だと、ついていけないかも知れません。

カズオ・イシグロ

「夜想曲集 音楽と夕暮れをめぐる五つの物語」

ベネチアのサンマルコ広場には、音楽あふれている。カフェバンドでギターを弾くヤネクは、演奏中に有名なガードナーを見いだした。母が熱烈なファンだったアメリカの歌手だった。話すことに成功し、ある依頼を受けた。27年間連れ添った妻へのサプライズの贈り物をしたいのだと。・・「老歌手」

初の短編集です。音楽があふれる世界で、人生の黄昏を迎えたミュージシャンたちの心象を描いています。叶わなかった夢。かつての栄光。残り火のように消えない音楽への思い。それらが紡ぎ出す、甘く哀しい、まさに夜想曲にふさわしい物語です。じっくりと味わいたい作品です。

アンディ・ウィアー

「火星の人」

有人火星探査が開始されて3度目のミッションは、6名の調査隊によるものだった。猛烈な砂嵐で中止を余儀なくされる。機体に乗る寸前に折れたアンテナがマークを直撃、砂嵐のなかへと姿を消した。船長の悲愴な決断で火星を離脱する。ところが奇跡的にマークは生きていた。不毛の赤い惑星に一人残されたマークは、限られた物資、自らの知識とエンジニアの技術を駆使する。ハブの中で予備のEVAスーツを使い、水と土を作りジャガイモ栽培、地球との通信も復活させていく。

絶望的な課題を突きつけらては、乗り越えるとまた別の難題が降りかかる。ひるまずユーモアと希望を失わないマークが魅力的です。エンジニアの素質と生命力が突出しています。展開の早さと説得力のある危機脱出力で引きつけます。長編ですが、最後まで飽きさせません。

アンディ・ウィアー

「アルテミス 上・下」

人類初の月面都市アルテミス。5つのドームに2,000人の住民が生活する。合法そして秘かに非合法の品物を運ぶポーターとして暮らす女性ジャズ・バシャラ。溶接工の父との確執も抱えつつ、独立した人間として生きている。大物実業家のトロンドから破格の報酬に目がくらんで引き受けたのは、ドームの外の4台の灰長石収穫機を破壊することだった。すべてが監視されているドームの弱点を見つけ、発想力、機転、溶接技術など駆使し、友人の強力も得て突き進む。

重力の少ない世界での暮らしぶりは魅力的です。ジャズの明晰な頭脳とアクティブな思考があり、展開も早くあっというまに読了しました。映像が想像できるので、映画化したら楽しいかも知れません。経済の中心や、システムや機器、空気の構成の綿密な知識が豊富で、最大の悪にたどり着きます。おもしろいアクションストーリーです。

ジェフリー・アーチャー

「ケインとアベル 上・下」

ポーランドの片田舎で私生児として生れたヴワデクは、極貧の猟師に引きとられ、壮絶な少年時代を送った。収容所から抜け放浪の果て、無一文の移民としてアメリカに辿りつき、アベルと改名した。ウェイターから始め、ホテルの支配人にのぼりつめ辣腕を振るった。
一方、ボストンの名門ケイン家に生れたウィリアムは、祝福された人生を歩み始めた。恵まれた環境と名家のプレッシャーの中で、知恵と努力でレスター銀行でハーヴァード卒業と同時に取締役に就任した。だが、ウォールストリート崩壊という試練が襲った。
株式で多額の負債を抱え自殺したホテルグループの経営者から、アベルはホテルの責任者を任された。アベルはメインバンクのウィリアムから返済を迫られ窮地に陥るが、匿名の投資家からの援助に救われ、ホテルを再建していくが、アベルは生涯をかけてウィリアムへの憎しみを晴らそうとする。

極貧のポーランドからアメリカへ渡ったアベルと、銀行業界の名門で実力で頭取へ上り詰めるウィリアムは、共に典型的なアメリカン・サクセス・ストーリーです。この軸を繋ぐ皮肉な運命は、現代アメリカ史を見るようでもあります。二人がいつ和解するのか気になりながら、それぞれの展開にぐいぐい引き込まれてあっというまに読んでしまいました。人物の心理の駆け引きや感情までも描き込み、ストーリーテラーでもあるこの作家は、3作目ということなので、これからが楽しみです。前2作も読んでみようと思います。

ジェフリー・アーチャー

「誇りと復讐 上・下」

自動車修理工ダニーは幼馴染みで雇い主の娘ベスにプロポーズした。だが祝いに出かけたパブでベスの兄で親友のバーニーの殺人事件に巻き込まれ、犯人として逮捕されてしまう。40年は牢獄で刑に服すことになり、同室のニックに勉強を教わり知識を身につける。外ではベスや弁護士の奔走にも関わらず控訴は受け入れられず、ダニーは絶望するが、思わぬことから外に出るチャンスをつかむ。真犯人に復讐すべく動き出す。

ストーリーテラーのアーチャーが全開で、ぐいぐい読ませられます。たくさんの偶然や運が味方し、天国と地獄を味わいながら、ラストで引っくり返す小気味のよさが楽しいです。登場人物が一人一人キャラ設定がうまくできていて、ダニーの心の葛藤の描写もいいですね。上質のエンターティメントとだと思います。

ジェフリー・アーチャー

「ゴッホは欺く 上・下」

9・11テロ前夜、破産寸前の家計に悩んでいた英貴族ウェントワース家の女主人ヴィクトリアは、双子の妹アラベラに手紙を書いているところを襲われ、首を切られて命を落す。犯人は左耳を切断し、美術品蒐集家で銀行家のフェンストンに送った。彼の代理でウェントワース家に交渉をしていた美術コンサルタントアンナは、ゴッホの自画像を狙って、無理な貸付をした上で担保として巻き上げてしまおうというフェンストンのやり方に疑問を感じ、首にされる。ノース・タワーを出て行こうとしたそのとき、ビルに飛行機が突っ込んだ。崩落したビルから生還したアンナは、ヴィクトリアに連絡を取り絵画を守ろうと動き出す。アンナが悪徳銀行の手先なのか、それとも味方か判断がつかないまま追跡するFBI捜査官ジャックと、ナイフを使うルーマニア出身の暗殺者の二人から追われる破目になる。

ノースタワーからの脱出の臨場感がみごとです。作者はここを書きたかったのだろうと思います。ぐいぐい読ませる展開は、ストーリーテラーとしての力を感じさせます。複雑な人間関係や力の関係をすっきり描き分けわかりやすくしている反面、キャラがどうしても類型的になりがちです。それでもおもしろく読ませるので、つい手にしてしまいます。何作かは読むことになりそうです。

ジェフリー・アーチャー

「プリズン・ストーリーズ」

決して飲んではいけないペットボトルの水を妻に飲ませた男の運命・・「この水は飲めません」。 巧妙に儲けを隠す人気イタリアン・レストラン主・・「マエストロ」。

12編の短編集です。イギリスの上院議員(貴族院)でありながら、投獄された作家が、獄中で犯人から聞いた犯罪ばかりを書いたものです。それらが事実としても、おそらく語り手によって脚色があるだろうし、作家というフィルターを通した物語になっているでしょう。事実と虚構の、狭間に見える人間の心がなんとも言えないリアリティを感じさせます。

エフタ・ライチャー・アティル

「潜入 モサド・エージェント」

アラブ某国に、英語教師を装って潜入していたモサド機関の女性スパイのは、事件がもとで急きょ任務を中止し、イスラエルへ帰国する。15年後、まったく連絡を取っていなかった元・上司だったエフードのもとに、レイチェルから突然謎めいた電話が入り、姿を消してしまう。重大な機密情報を知るレイチェルの失踪を捨て置けないモサドは、すでに引退していたエフードに行方を追うよう依頼する。かつてレイチェルに恋心を抱きながらも、結婚していて心情を殺していたエフードは依頼を受ける。徐々に語られるレイチェルのスパイ生活と、15年前の事件、そして現在の失踪の謎。はたして腕利きのスパイ、レイチェルの真実はどこにあったのか。

回想の形でストーリーは進みます。スパイが一般人として暮らす過程で、決して本心を見せず、嘘をつき通しながら、レイチェルにも愛の感情が芽生えることもあったのです。けれど組織には逆らえず、貴重な情報をもたらします。そんなレイチェルを監視しながら、エフードの気持ちも揺れ動きます。次第に組織への忠誠と、資質が、迎える残酷な結末を予感させていきます。うまい展開ですね。

バリー・アイスラー

「レイン・フォール/雨の牙」

山手線の車内で男は突然くずおれ、絶命した。それを見届けて、ジョン・レインは電車を降りた。日米ハーフの男・レインは、東京で幾度も政治がらみの暗殺を手がけてきた凄腕の殺し屋だった。ある夜、彼は美貌のピアニストみどりと出会い、心を奪われる。意外にも、彼女はレインが山手線で殺した男の娘だった。だが、次にレインが依頼されたのはみどりの暗殺だった。彼女を救う唯一の手段は、政界に潜む依頼主の謀略をレイン自ら暴くことだった。

日本を舞台にした男は、ヴェトナム戦争を体験したフリーランスの殺し屋という設定もおもしろいです。日米関係や日本の政治情勢、裏事情にも迫りますが、リアリティさに欠けるものの、物語としては楽しめます。あまりパーフェクトではないキャラ設定が、ドジな印象があるのが難点でしょうか。それでも2作目を読んで見たくなりました。

バリー・アイスラー

「雨の罠」

日米ハーフの殺し屋・ジョン・レインは、ブラジルで静かな暮らしをしたいと計画した。だがCIAから武器商人のベルハジの殺害の依頼が入る。単純に見えた計画は思わぬ邪魔が入り、ジョン自身も命を狙われ始めた。マカオ、香港、日本、アメリカと移動しながら、敵と味方を見極めていく。謎の女・デリカの正体とは・・・。

2作目です。前作同様、周囲を観察して危険を回避する日常的な行動があっても、危険は避けられないジョンの設定が楽しめます。殺人のリアルさを全面には出していないのですが、かなりヘビーな描写があります。おもしろい作家だと思いますが、細部を描くことに時間がかかり、ストーリーの進行が遅い印象があります。

トーヴェ・アルステルダール

「海岸の女たち」

パリに取材に行ったフリージャーナリストの夫・パトリック。連絡が途絶えて10日あまり、パトリックからのテレーセ宛の手紙には、謎めいた写真が保存されたディスクが入っていた。妊娠を告げたくて、テレーセはニューヨークからパリへ飛んだ。その頃パリでは、不法移民問題が起き、大規模火災で多数が亡くなっていた。

わずかな手がかりからパトリックの行動範囲と人脈をつかみ、大胆な行動力を発揮するテレーセは、魅力的です。ただ、社会情勢や大きな問題の前には手も足も出ません。かろうじて夫と自分の誇りを守る、凛とした姿勢は立派です。時代的に少し前の北欧で、横たわる人種差別や貧困が少し重いです。

デイヴィッド・アンブローズ

「リックの量子世界 」

美術誌や物理学誌の出版をしているリックは、妻と息子に囲まれた平穏な暮らしを送っている。重要な会議の途中に、 異様な感覚に襲われた。妻が危ないという意識に突き動かされ、駆けつけると無惨な交通事故車の中の瀕死の妻だった。 妻の死を目にして意識が遠のいた。だが気がつくと妻は無事で、なぜか事故に遭ったのは自分自身になっていた。妻に 正直に事態を打ち明けると精神病院に入院させられた。一時はパニックに陥ったリックだが、次第に冷静にならなければ 狂人扱いを受けると理解し、しかもリチャードという別の意識と同居していることを知る。なぜこの世界に紛れこんだのか。もとの自分に戻れるのか・・・。

ひとつの体にふたつの意識という、統合失調症や多重人格といった精神的な問題とされてしまそうな状態です。そこでリックが直面するのは、他者と自分にとっての世界観の違いです。本当の世界とは、どこにあるのかという心の問題にぶつかります。 また、元の世界のリックと意識の上で同居することになってしまったリック=リチャードは仕事も生活スタイルも違い、妻との関係・家庭の有り様といったものが異なります。多世界解釈というものは、SF的には量子理論が 背景になっていますが、この作品では不安や疑心、家庭・夫婦についてまで見直してみる物語になっています。多少の時代の古さはあるものの、テンポもよく楽しめます。

ポール・アルテ

「殺す手紙」

「デッドフォード地区にある空き家へ行き、指定の時刻にランタンを灯してほしい。そして前に建つ屋敷のテラスをノックしてくれ」親友・フィリップから、ラルフに奇妙な手紙が届いた。友に事情があると察したラルフは指示通り空き家に入るが、警官が踏み込んで来た。かろうじて逮捕から逃れ、道路脇で休んでいたラルフに、車に乗った男が道を尋ねる。だが助手席に乗っていたのは、空襲で死んだ妻によく似た女性だった。更に指示された屋敷の奇妙なパーティーに入り込み、出席していた牧師の死体を見つけてしまう。

1940年代、終戦後のイギリスを舞台にしたスピード感のある展開です。二転三転する事件の全体像すら見えず、読み手を混乱させミス・リードしていきます。こういう読ませ方もあったのかと、新鮮でした。殺人、スパイ、母親との確執、亡妻への思いとが絡み、翻弄されるラルフのラストはみごとです。早川書房のポケット・ミステリのライン・アップに外れがないのが、うれしいです。

ナンシー・エチメンディ

「時間をまきもどせ!」

ギブはある日、森で出会った不思議な老人に、失敗を取り消すことができるという機械“パワー・オブ・アン”を手渡されたが、半信半疑だった。ギブはその夜、親友と移動遊園地に行く予定で妹のロキシーも連れていくことになるが、遊園地でギブが目をはなしたすきに、ロキシーは野良犬を追いかけて車道にとびだし、トラックに引かれてしまった。命はとりとめたものの、ロキシーは二度と意識を取り戻すことはないという。あの機械を使えば、事故 そのものをを止めることができるかもしれない。

少年が同じ時間を生き直すということは、難しいことなのですね。しかも微妙にずれていくできごとに振り回されていく辺りが、はらはらさせます。友人や家族への思いが、暖かく、冒険ものとしても楽しめます。

マーク・アルパート

「アインシュタイン・セオリー」

理論物理学者・クラインマンが拷問を受けて死亡した。愛弟子だった科学史学者・デイヴィッドに謎の数字を残した。それはアインシュタインが封印した、究極の真理「統一場理論」への鍵だった。理論が悪の手に渡れば世界の破滅してしまう。FBIや正体不明の組織に狙われたデイヴィッドは、女性物理学者モニークとロボット工学研究所長・グプタとその孫とともに、必死に逃げるが・・・。

数字や物理という設定と、アクション要素と、人間の心理を息つく間もなく読ませてしまいます。物理をはじめて理解できたような気にさせてくれました。わかりやすくしかも次第にその恐ろしさが伝わってきて、はらはらの連続です。意外な展開もあり、映画にしても面白いだろうと思います。 お勧めです。

シャーロット・アームストロング

【 サムシング・ブルー】

内気なナンがジョニーに別れを告げ、恋にのぼせ上がってディックと結婚すると言い出した。身内のエミリーおばさんは「そいつと結婚してはだめ」と言う。エミリーの兄は17年前、妻でナンの母を殺したという無実の罪で服役し、ひそかにディックが犯人だと思っていた。ジョニーにかなりの財産を持つナンの秘密を明かした後、エミリーは殺される。ナンの父に事件を調べて、ナンに真実を告げてほしいと依頼される。心配するジョニーとドロシーは、調査を始める。

財産目当ての男だと言われても聞き入れないナンと、必死に過去の事件の真相を話すジョニーの空回りするやり取りに、焦れったくなります。証拠品や証言を覆していくジョニーの、ひた向きさが作品を引っ張っていきます。結婚までの秒読みにハラハラさせられ、ラストのオチまでしっかり読ませてくれます。

ジェイ・アッシャー

「13の理由」

少年クレイの元へカセットテープ7本が送られてきた。録音されていたのは、2週間前に自殺した同級生ハンナの声だった。自ら死を選んだ13の理由を七本のテープのAB面に生前録音して用意し、自分の死後に原因を作った関係者達に聴かせようと計画したものだった。噂が容易に多くの人を誤った印象に導くことと、チャンスはあったのに他人が悪を為すのを止められず被害者を救えなかった傍観者だったことの罪を主張した。自分が死ぬサインを出したのに、積極的に止めようとしてくれなかった人々への思いと感情に、クレイは叫び出しそうになった。

自殺への過程が斬新な手法で描かれた作品は、暗くならず次第に深いところに突き刺さっていきます。クレイの一人称の文字と、ハンナの声の文字が文字サイズを変えて交互に描く斬新な方法は、同時進行のふたつの物語が浮き沈みをしているようです。聞いている者とハンナの心が、糸を縒り合わせていくのです。死んだ者と生きている者が、会話以上に心を重ねていく効果がありました。2作目を読みたい作家です。

ミーガン・アボット

「暗黒街の女」

怪しげなバーの経理の仕事をしていたわたしの前に、グロリアという女性が 現れた。エレガントな服を着た優雅な身のこなしのグロリアは、暗黒街の ギャングの幹部だった。気に入られたわたしは、賭博、運び屋の仕事をこなして グロリアの信頼を得る。だが負け続きのギャンブラーに惹かれたわたしは、 彼のために行動を起こすのだが。

グロリアの存在感と、その姿を見つめて後を追う「わたし」の頭脳と野望がとてもリアルです。ノワールの世界を、じつにうまく描き出しています。グロリアと「わたし」の短い言葉の応酬の緊迫感に、つい引き込まれて読んで しまいました。

デイヴィッド・アーモンド

「肩甲骨は翼のなごり」

心臓の悪い赤ちゃんのため、引っ越してきたばかりのマイケルは、たいくつを持て余していた。両親が崩れるから近づくなと言われたガレージに入り、不思議な生き物を見つけた。テイクアウトの食品とアスピリンとビールをもってきてほしいと言う。体を支えると、肩甲骨の辺りが膨らんでいた。食べ物を運んだり、隣の家の少女ミナと一緒に話をする奇妙な関係が続いたが・・・。

翼を持つ生き物との関わりを通して、暖かい家族から少し疎外感を持った少年が、冒険を通して成長していく物語です。翼の感触が手に伝わってきそうなリアリティがあります。そして、動物臭も含めて、存在を受け入れるのがいいですね。家族との心のつながりをどう繋ぐのか。大人の事情を子どもが理解して、家族との愛情を確認してく過程が、印象的です。子どもの頃の、空を飛びたかった気持ちを思い出しました。

アーナルデュル・インドリダソン

「声」

クリスマスシーズンで賑わうホテルの地下室で、一人の男が殺された。ホテルのドアマンだった孤独な男は、サンタクロースの扮装のままめった刺しにされていた。捜査官エーレンデュルは捜査を進めるうちに、被害者が幻の天才美声少年歌手だった過去を知る。父から厳しく支配された少年が最高の舞台で声変わりをする悲劇、そして車椅子の父を世話をする姉。自らも癒やすことのできない傷を抱えたエーレンデュルが、ついに事件の真実にたどり着く。

序盤の展開のスローさが途中から、ホテルの支配人、コック長の悪事、部屋の清掃人、高級娼婦、エーレンデュルの娘との確執、登場人物の多様さと絡みをじつに巧みに描いていきます。一人一人が抱える心の傷に解決の光を見せ、読後感も明るいです。

アーナルデュル・インドリダソン

「湿地」

北の湿地のアパートで、老人の死体が発見された。侵入の形跡はなし。何者かが突発的に殺害し逃走したらしい。ずさんで不器用、典型的なアイスランドの殺人。だが、残されたメッセージが事件の様相を変えた。ベテラン刑事・エーレンデュルが40年前の「レイプ事件」を探り当て、家族の血縁問題が明らかになる。

テンポが緩やかで、せっかちなわたしには少々苦痛な展開でした。けれど人物像が浮き上がり、物語に引き込まれていきました。被害者の複数の家族が、過去の事件に翻弄され苦悩し続けます。迷いや苦悩から脱却し、再生していく家族にほっとしました。ただ、家族間の狭さは今の時代には、息苦しさを覚えます。

ジェニファー・イーガン

「古城ホテル」

ニューヨークの刑務所で囚人レイは、刑務所の新米女性教官のホリーの指導のもとに、「古城ホテルの物語」を書き続けていた。物語の舞台は、少年時代の友人でいとこのハウイーが、崩壊寸前の古城を一風変わったホテルへ改築する手伝いを必要としていたため、主人公ダニーはその地を訪れる。だがダニーは、幼い頃ハウイーを裏切って洞窟内の池に突き落とした記憶があり、複雑な感情があった。古城は秘密の地下道、塔に住む老男爵夫人、双子が溺れ死んだという伝説の残るプールなど、怪しい雰囲気が漂っていた。次々と事件が起こる中、ダニーはアメリカの恋人と携帯電話で連絡が出来ず、恐怖に駆られていき、遂に脱出を試みる。

何やら不思議で怪しい雰囲気の風変わりなホテルに、「囚われた」人々の奇怪な世界が進行していきます。手際の良い構成と、怪しげな雰囲気が入り組んで、現実と物語があいまいになっていくというストーリーは、ゲームの世界のようです。読ませますが、盛り込み過ぎた人物たちが消化不良の印象が残ります。

ジェームズ・アンダースン

「血染めのエッグ・コージィ事件」

バーフォード伯爵家の荘園屋敷のパーティに、テキサスの大富豪、大公国の特使、英海軍少佐など豪華な顔ぶれが集まる。やがて嵐になり夜の闇に紛れて宝石盗難事件と、謎の連続殺人が起こる。犯人は邸の中にいるはずだと警察が捜査を始めるが、手がかりは庭に残された、血のついた茹で卵覆い(エッグ・コージイ)だけだった。復古的な舞台立てと、推理、トリックが展開する。

ヨーロッパの架空の公国とイギリスとが国防と資源を巡って上述の荘園で交渉するという背景のもとに、物語は進行します。交渉の様子を探るスパイが潜んでいるという設定があるものの、牧歌的謎解きなのです。こういうストーリーは苦手の方なのですが、ユーモアのセンスでおもしろく読めました。

エリザベス・ウェイン

「コードネーム・ヴェリティ」

第二次世界大戦中、ユダヤ人の女性飛行士マディと、無線技術士でイギリス特殊作戦執行部員のスパイの任務のクイーニーが、小型飛行機でフランスに飛び立つ。だが攻撃を受け墜落寸前の危機に立たされる。パラシュートで脱出したクイーニーはナチスの捕虜になった。彼女は親衛隊大尉に、尋問をやめる代わりに、イギリスに関する情報を手記にするよう強制される。その手記には、親友のマディの戦場での日々が、まるで小説のように綴られていた。

ややこしい手記に始まる長い物語は、真実みを帯びた嘘なのか曖昧なまま進行します。第二部で真実が明らかになっていきます。戦時下の過酷な状況にも関わらず、目を背けさせないストーリーのわずかな希望があります。過去の思い出が時おり、明るい青春の空気をまといます。こういう書き方もあるのかと、新鮮でもありました。結末はハッピーではないけれど、読後感はよかったです。

エリザベス・ウェイン

「ローズ・アンダーファイア」

1944年9月。英国補助航空部隊の女性飛行士ローズは、戦闘機を輸送する途中でナチスに捕まり、ラーフェンスブリュック強制収容所に送られてしまう。飢えや寒さに苦しみながら過酷な労働に従事するローズが、収容所で出会った仲間と生き延び、地獄を脱出するための意外な方策とは。数々の日記や手紙で構成された先の見えない展開と結末。

まだ少女ともいえる飛行士ローズの、普通の暮らしを取り戻すために戦いに参加したいと強く願っています。本当は戦闘機乗りになりたかったのです。けれど強制収容所で、食事もろくに与えられず、壮絶なまでに過酷な環境と労働に明け暮れる日々が続きます。ポエムをちからに生きる希望を失わず仲間を作る人間性。そこに心が救われます。逃走する緊張感が、ラストの穏やかな空気感が読後感をさわやかにしています。こんな時代があってはいけないけれど、ぜひ読むことをお勧めします。

R・D・ウィングフィールド

「冬のフロスト 上・下」

寒風が肌を刺す冬、デントン署管内はさながら犯罪見本市と化していた。幼い少女が行方不明になり、売春婦が次々に殺され、ショットガン強盗にフーリガンの一団、「怪盗枕カヴァー」といった宝石店泥棒が好き勝手に暴れる、古い遺骨が発見される始末。冴えないフロスト警部は、上司に経費の使い過ぎと検挙率の低さを罵倒され、無能な部下に手を焼きつつ、人手不足の影響で睡眠不足の捜査を強いられる。

推理や捜査がわずかに逸れて無駄骨になるフロスト警部。タバコの煙でつかのま笑えないジョークを飛ばしつつ、失意に落ちます。執念の粘りで、いくつもの事件を最終的に収斂させてしまうのが、うまいです。長さが気にならずに読ませるうまい作家です。亡くなられたと聞き、もう数作読んでみようかと思います。

R・D・ウィングフィールド

「フロスト気質 上・下」

ゴミ袋から少年の死体が発見。連続幼児死傷事件。幼児3人殺人事件と母親の失踪。しょぼくれた風体のフロスト警部は、人手不足の影響で睡眠不足。上司に無駄遣いと検挙率の低さを罵倒され、出世第一目標のキャシディ刑事が、臨時の警部代理で派遣される。娘を交通事故でなくしフロストの捜査に恨みを持っている。さらに少年の誘拐事件が発生し、身代金引き渡し場所での犯人逮捕の失態。限られた人員で捜査を強いられる。

推理や捜査が逸れて手がかりを失うフロスト警部。タバコの煙と笑えないジョークといまならセクハラ行為も、愛すべき人物像としてわたしの中に定着。豪雨の中の捜査、自ら川のゴミ拾いまで加わり、執念の粘りで少年を救い出しますす。徒労とひらめき。難事件を最後はぎりぎりのところで解決してしまうのは、強運としか言えないほどですが、笑顔で読み終えてしまいました。

R・D・ウィングフィールド

「フロスト始末 上・下」

フロスト警部はヘマが招いた事態とはいえ、マレット署長や新任の主任警部に他署に追い出される崖っぷちに立たされる。残る日々も容赦なく起き続ける少女失踪・強姦殺人・脅迫・と、次々起こる厄介な事件に時間を取られ、眠ることもできない。報道陣や警察の見守る中、活躍ぶりを見せようと主任警部は立てこもり犯を撃とうとするが。

次から次へと事件が起き過ぎだろうという盛りだくさんの内容です。別れた妻との感傷にひたる時間もなく、下品なジョークも忘れないタフなフロストに、ただただ頑張れと声援を送りたくなります。どしゃ降りの雨の中の張り込みの冷たさや、死体の臭気までもが伝わってきそうです。遺作となります。もっと読みたかったなと思う惜しい作家です。

ドン・ウィンズロウ

「ダ・フォース 上・下」

麻薬や銃による犯罪を取り締まるマンハッタン・ノース特捜部、通称『ダ・フォース』。ニューヨーク市警3万8千人の中でも最もタフで最も優秀で最も悪辣な警官たちを率いるマローンは市民のヒーローであり、この街を統べる刑事の王だった。だが、ドミニカ人麻薬組織の手入れの際におこなったある行動をきっかけに、マローンの人生は転落の道をたどりはじめる。FBIが汚職警官を極秘裏に捜査するなか、1人の刑事が拳銃自殺を遂げる。仲間内に衝撃と疑心暗鬼が広がる一方、街場ではラテン系、黒人ギャング、マフィア新旧入り乱れる権力抗争が激化していた。さらに連邦職員の検察とFBI捜査官に追い詰められ、マローンは自分の組織の裏切り者にされる。

清濁併せ持ち、街を治めていたマローンが窮地に陥るのは初めての展開です。絡み合った人と人の「信頼」を裏切ることになった苦渋。ハードな事件と、ヤワなマローンの罪の意識。そういう一面が描かれ、胸に突き刺さります。重くハードな仕事で挽回しようと、必死にもがく姿が印象的です。力量のすごさを感じました。

ドン・ウィンズロウ

「ザ・カルテル 上・下」

麻薬王アダン・バレーラが脱獄した。30年にわたる血と暴力の果てにもぎとった静寂も束の間、身を潜めるDEA捜査官アート・ケラーの首には法外な賞金が賭けられた。玉座に返り咲いた麻薬王は、血なまぐさい抗争を続けるカルテルをまとめあげるべく動きはじめる。一方、アメリカもバレーラを徹底撲滅すべく精鋭部隊を送り込み、壮絶な闘いの幕が上がる。

壮大なカルテルの小さな悪から、南米を統べる大組織の巨悪まで、書き切る作者の力量は凄まじいものがあります。残虐なシーンをこれでもかと展開します。ケラーの行動は復讐という私怨に突き動かされます。金銭や地位も、そこが根本的な部分なのか。疑問が残ります。どこまで書くのか、という思いに引きずられて読み終わりました。残ったのはもう謀略や暴力物は読みたくない、うんざりという疲労感でした。しばらくは心安らぐ作品を読みたいです。

ドン・ウィンズロウ

「報復」

空港の保安監督官として働くデイヴは、飛行機事故で最愛の妻子を失った。絶望にうちのめされながらも、事故として扱われる奇妙な動きから、テロではないかと疑念を抱いたデイヴは、恐ろしい事実と政府の隠蔽工作を知ってしまう。怒りに駆られ、元兵士の先鋭たちと狡猾なテロリストへの報復を決意する。すべてを失った男の凄絶な闘いが始まる。

作者のいつもの心理描写は、デイヴの家族への思いと、仲間たちそれぞれの短い懐古に凝縮されます。 戦闘シーンと心理を両立させています。豊かな銃器や軍事知識が精緻で、アクション映画で見たくなります。仲間の一人の裏切りを断罪するシーンも、負傷者を連れ帰ろうとする心情もうまく描かれていると思います。戦闘シーンが長いのはやむを得ないところでしょう。新作が楽しみです。

ドン・ウィンズロウ

【ストリート・キッズ】

「朋友会」のレヴァインは、民主党全国大会の副大統領候補の上院議員から、行方不明の娘・アリーの秘かな捜査を依頼された。ストリートで財布を盗んだ少年ニールに、プロの探偵稼業を教え込み、連れ戻す役割を与えた。ニールは大学を強制的に休業させられ、ロンドンに飛んだ。だがアリーは麻薬に溺れ、悪の街を歩き回っていた。

レヴァインがニールに、探偵稼業を伝授するシーンがおもしろいです。尾行、ドアロック解除、薬の売人たちとのやり取りに至る詳細な描写が、すごいです。頭脳明晰なニールの行動も、先に残される希望を感じさせ、読み終えました。シリーズ物ですので、何作か読んでみたくなりました。

ドン・ウィンズロウ

【高く孤独な道を行け】

探偵・ニールは、不穏なカルト集団に連れ去られた2歳の赤ん坊を救出しろと、組織から命じられた。秘かに潜入するニールの目に写ったものは・・・。

シリーズ3作目です。2作目は読んでいませんが問題はなさそうです。成長したニールが、敵も味方も欺く術を身につけ、ネヴァダの荒野での活躍も楽しめます。

ドン・ウィンズロウ

「犬の力 上・下」

メキシコの麻薬撲滅に取り憑かれたアメリカ麻薬取締局(DEA)の捜査官アート・ケラー。叔父が築くラテンアメリカの麻薬カルテルの後継バレーラ兄弟。白の館の高級娼婦ノーラ。ヘルズ・キッチンから殺し屋へと育っていく若者カラン。彼らと不思議なつながりを持つ司祭パラーダ。彼らが好むと好まざるとにかかわらず放り込まれるのは、30年に及ぶ壮絶な麻薬戦争。米国政府、麻薬カルテル、マフィアら様々な組織の思惑が交錯し、物語は疾走する。麻薬カルテルの密輸の実態、組織化、陰謀、暴力抗争、政治的暗躍と権力との癒着、それにともなう政治・官憲の腐敗と、復讐、暗殺、そしてそれらに立ち向かう正義、人々の愛憎。裏切りに継ぐ裏切りが繰り返され、味方は実は偽りの味方だった。もはや正義は存在せず、怨念と年月だけが積み重なる。叔父の権力が弱まる中でバレーラ兄弟は麻薬カルテルの頂点へと危険な階段を上がり、カランもその一役を担う。アートはアダン・バレーラの愛人となったノーラと接触。バレーラ兄弟との因縁に終止符を打つチャンスをうかがう。

すさまじいまでのリアルな戦闘、処刑、殺しの描写に、ぐいぐいと引き込まれてしまいます。絶対的な正義も存在できず、アートも清濁飲み込む男に描かれています。アダンも、難病の娘を抱える父、妻を愛する夫で、ノーラ対し熱い思いを持つ情夫である反面、組織の要として対立勢力との激しい抗争にあけくれる顔を持っています。民衆救済を実践する司教フアンも、ノーラと特異な友愛関係を結んでいき、アートも心からノーラへの愛情を感じているなど、自分の属する位置を変えながら銃を片手に疾走し続けるのです。 最後まで地獄絵図が繰り広げられる場を生き延びるのは、人間の心奥深くにある狂気「犬の力」なのでしょうか。無駄や曖昧な感情を削り落としたハードな文章が印象的です。それにしてもすごい作家ですね。軽快な探偵ニールシリーズとは全く別な顔を見ました。

ケイト・ウィルヘルム

「鳥の歌いまは絶え」

放射能汚染によって、生殖能力が極端に低くなった地球上の生物群は、緩やかな滅びへと向かっていた。その中で豊かな渓谷の一族が研究所を創り上げ、クローン繁殖の技術によって滅亡を回避しようと試みる。だが誕生したクローンたちは個々の自意識が薄く、今までの人類の文化と異なる無個性の王国を築き上げようとしていた。

同じ種族だけで一緒にいることで安心してしまう新しい生物。将来を見越すだけの想像力がないから、危険があると彼らに告げようとする者は、共同体の敵あり排除の対象に。人間が多種多様な存在であることで、差別や戦争が起きる一方で、繁栄をもたらしてきた歴史のようでもあります。現実社会の目指す理想の極地も、怖い世界だと思います。

マーサ・ウェルズ

「マーダーボット・ダイアリー 上・下」

かつて大量殺人を犯したとされたが、その記憶を消されている人型警備ユニットは機械と生体の合成体だった。一人称「弊機」で、物語は進行する。自らの行動を縛る統制モジュールをハッキングして自由になった。人間を守るようプログラムされたとおり所有者である保険会社の業務を続けているが、連続ドラマの視聴をひそかな趣味として少しづつ人間の感情を理解し始める。メンサー博士の指令を受け、ある惑星資源調査隊の警備任務に派遣された弊機は、ミッションに襲いかかる様々な危険に対し、プログラムと契約に従って顧客を守ろうとするが・・。

一気に引き込まれて読みました。強力な戦闘ユニットであり、腕に強力な銃を装着しています。強化人間で人間のふりをするときは、センサーにハッキングし通過する初歩から、運搬船操縦ユニットを操るほど明晰な頭脳です。自らの体を犠牲にしても博士の命を守り、買い取られて任務を解かれ、自由にやりたいことや学ベル環境に置かれると、ふらりと姿を消します。こういう一人称ストーリーはなかった気がします。ユーモアもあり、スピード感、アクションなんでもありで楽しめます。

s

ジョー・ウォルトン

「わたしの本当の子どもたち」

パトリシアは「パティ」と呼ばれオックスフォードで学び、ケンブリッジ中等学校の教師となった。マークとの婚約を破棄されても後悔はなく、ボート乗りや美術館巡り、新しい生活を楽しんでいく。やがてガイドブックの執筆で身を立てていき、ビイという女性と恋に落ち一緒に暮らし始める。一方でマークと結婚したものの、「トリシア」と呼ばれ愛のない子育てと家事の多忙で鬱々とした暮らしを続ける。成長した子どもたちに助けられながら、補助教員になり自分の道を歩き出す。パトリシアの世界は、若き日の決断を境にふたつに分岐した。並行して語られるまったく異なるふたつの人生で、別の喜び、悲しみ、そして子どもたち。どちらの世界が「真実」なのだろうか。

「もし、あのとき別の選択をしていたら」誰もが一度は考えることです。介護施設にいるパトリシアの記憶として書かれるふたつの物語は、時代の不自由さと戦い、必死に生き抜いた女性です。どちらの道も若いときには大切で感情を揺さぶられる人生ですが、厳しく険しい老後が、切なくやりきれなさを強調しています。うまい作家ですね。

ジョー・ウォルトン

「英雄たちの朝」ファージング・セット1

第二次大戦でナチスと手を結ぶ道を選んだイギリス。和平へ導いた政治派閥「ファージング・セット」は、国家権力の中枢にあった。派閥の中心人物の邸宅でパーティーが催された翌朝、下院議員の変死体が発見される。捜査にのり出したスコットランドヤードのカーマイケル警部補は、ユダヤ人差別の壁に阻まれる。

世相が次第にファシズムに染まって行く漠然とした違和感。大きな権力によって人種差別、階級社会、同性愛蔑視など個人の尊厳と自由が奪われて行くじわじわとした焦燥感。けれど個人の立場での限界に絶望しそうになります。真実も法律もねじ曲げる強大な権力に屈する、カーマイケル警部補の秘かな決意が希望でした。

ジョー・ウォルトン

「暗殺のハムレット」ファージング・セットU

政府が強大な権限を得たことによって、国民生活は徐々に圧迫されつつあった。そんな折、ロンドン郊外の女優宅で爆発事件が発生する。この事件は、ひそかに進行する一大計画の一端であった。カーマイケル警部補の捜査は進むが・・。旧家から飛び出して舞台女優になったヴァイオラ。ヴァイオラが男女の配役を逆転させた芝居「ハムレット」の主役をオファーされ、舞台成功へと敬子を重ねる。厳重警備の中、総統が感激に来ると情報が入る。旧家の妹から絶対拒否できない、とんでもない難題を押し付けられる。

カーマイケル警部補のプライベートの葛藤も描かれ、人間味を感じさせます。だからこそ、仕事の立場を利用してのユダヤ人や罪のない人々の逃亡支援を続けているのでしょう。自由のないヴァイオラが羽ばたけるはずの舞台で、苦渋の決断は潔いです。犯人を逮捕しなければ、元の世界に戻れたのか。カーマイケル警部補の最後の思いは、3部作最終作へと続きます。

ジョー・ウォルトン

「バッキンガムの光芒」ファージング・セットV

ソ連が消滅し、大戦がナチスの勝利に終わった1960年、ファシスト政治が定着したイギリス。イギリス版ゲシュタポ・監視隊の隊長カーマイケルに育てられた養女エルヴィラは、社交界デビューと大学進学に思いを馳せる日々を過ごしていた。裏でカーマイクルは監視隊の地位を利用し、無実のユダヤ人たちを国外に逃亡させる非合法組織を束ねていた。しかしエルヴィラたちの人生は、ファシストのパレードを見物に行ったことで大きく変わってしまう。

古き社交界の会話が聞こえてきそうな描写と、カーマイクルの隠れた仕事との落差が、エルヴィラ逮捕で現実に繋ぎ合わされました。カーマイクルの表の仕事の立場とエルヴィラへの対処、後半のエルヴィラの果敢に立ち向かう姿がなかなかです。多少うまくいき過ぎ感はありますが、読ませてくれました。

ミネット・ウォルターズ

「遮断地区」

独居老人、ドラックに浸る不良少年たちの住む低所得者層団地に越してきた老人と息子は、小児性愛者だと疑われていた。2人を排除しようとする小さな抗議デモは、10歳の少女が失踪したのをきっかけに暴動へ発展する。団地は封鎖され、石と火焔瓶で武装した2,000人の群衆が襲いかかる。警察も入れない。医師のソフィーは、暴徒に襲撃された親子に逆に監禁され暴行されそうになる。出所したばかりのジミーは恋人を救おうと行動を起こす。

しばらく読んでいなかった作家です。こういう作品も書くのですね。一気に読ませる展開と、登場人物の多さと細部描写のくどさが入り交じり、主題がわかりづらいのが惜しいです。社会的主張や心の精神的闇も深くはありません。サスペンスとしてはいいのではないでしょうか。

ミネット・ウォルターズ

【 氷の家】

十年前に当主デイヴィッド・メイベリーが失踪した邸の氷室で、身元不明の惨死体が発見される。警察の捜査もなかなか、はかどらない。村人から"三人の魔女"と呼ばれる現在の当主たちは、デイヴィッドではないと主張する。だが、ジャ−ナリストのアンが何者かに襲われる。ひとつの謎が解けそうになると、また新たな謎があらわれ謎は深まっていく。

邸の中で絡まり合う利害関係と謎が、姿を現しそうになるとまた次の謎がその答えをひっくり返してしまいます。科学捜査が始まる前の時代設定は、多少もどかしいところがあります。おもしろいのですが、どこかはぐらかされていくので、途中で読むのをやめようかと何度か思いました。かろうじて、読了です。

アーロン・エルキンズ

【古い骨 】

レジスタンスの英雄だった老富豪ギヨームが、館に相続説明のために親族を呼び寄せた。だが、海で死んでしまう。警察は事故死としたが、地下室から古い人骨の一部が発見される。フランスを訪問中だった人類学教授で名探偵役のギデオン・オリヴァーは、警察に依頼され人骨を調べ始めるが、今度は親族の一人が毒殺される。

骨の鑑定科学捜査がまだない時代でしょうか。それでもおもしろかったのは、石造りの修道院、干潟に寄せてくる潮流などの背景と、ストーリーの動的な展開があるからです。おぼれそうになるシーンの描写がうまいです。

アマンダ・エア・ウォード

【 カレンの眠る日】

テキサスの刑務所の死刑囚監房では、連続殺人者カレンをはじめ、シャーリーンやティファニーたちが刑の執行を待っている。婚約を破棄して故郷に戻ってきていた医師フラニーは、エイズを発症しているカレンに痛み止めのモルヒネを打ちながら、救う方法はないかと思う。一方、シーリアはカレンに夫を殺され立ち直れずにいる。死刑執行日が近づき、それぞれが複雑な思いをかき乱されていく。

凶悪な犯罪を犯した死刑囚たちの意外にも、奇妙な明るささえ感じる「日常」を、深刻にならずに描いていきます。シーリアにもそしてフラニーにも、生きていく「暮らし」があるのです。しかも、もしかしたら冤罪かも知れないと、かすかに感じさせていく辺りがうまいと思います。ただ3人の視点で描き分ける各章が、短か過ぎて煩わしく感じます。またフラニーが類型的で、患者に感情移入し過ぎる医師というのも疑問です。もっともそれがなければ、ラストへの動機付けもストーリーが成立しないのですが。

ジェフ・アボット

【 図書館の死体】

ポティートはボストンの出版社を辞め、母と暮らすため小さな町の図書館長の仕事を得た。ようやく町の人たちとの関係も築かれようとしたとき、図書館で他殺死体が発見される。しかも前日、本のことで言い争った女性だった。さらに凶器は、テニスコートに誰かが置き忘れていたのでなにげなく預かったバットだ。女性の手には、ポティートや母など数人の名前と、聖書の引用句が書いたメモが残されていた。容疑を晴らそうと、ポティートは犯人探しを始める。

ポティートが姉ともめながらも、なんとか家族とうまくやっていき、事件の裏付けを取るのも順調に進んでいきます。プラス思考の性格がいいですね。次第に現れてくる事件の真相も、いい意味でとても人間くさい印象があります。安心して読めるあたりで、シリーズ化されたのでしょう。ちょっと出来過ぎな感じはあるのですが。

ジェス・ウォルター

【 市民 ヴィンス】

4年前過去を清算し、小さな町のドーナツ屋の店主をしているヴィンスは、偽造パスポートや麻薬をさばく顔も持っている。ある日、死んだ知人の数を数えずにいられなくなる。強迫観念に取り憑かれ、命を狙われている気配を感じた。昔の仲間が落としまえをつけにきたのか。いつものようにポーカーをやりながら、あるいはカードや麻薬を渡しながら、秘かに思いを寄せているケリーと話しながら、数え続ける。折しも大統領選が始まっているのに合わせ、有権者登録カードが送られてくる。それさえも、脅迫めいて感じられた。刑事の動きも気に入らなかった。

映像をフラッシュさせ、たくさんのシーンが錯綜しながら進んでいく、読ませ方が新鮮です。大統領選や郵便配達人、娼婦たちなど、周囲の関わりのある人物との「市民」レベルの会話がストーリーを展開させ、それらが最期に収斂していく手法も、みごとです。新鋭の作家のようですが、おもしろそうですね。ただ1作目はサイコ・キラーものなので、読むかどうか迷っています。

スチュアート・ウッズ

【 警察署長】

1919年、メキシコ綿栽培に失敗したウィル・ヘンリーは、しかるべき人物を介し、初代デラノ市警察署長に就任した。家庭内暴力や、小さな事件が仕事だった。だが郊外の森で、全裸の若者の死体が発見された。長期間手足を縛られ、しかも拷問のあとが見られた。捜査の途中で意外な人物が浮かび上がるが、すでに魔の手が伸びていた。

二代目署長のサニーは、ウィルの残したメモから殺人事件の犯人に迫るが、罠にはまってしまう。三代目辣腕署長・タッカーが、謎に満ちた事件の捜査を始めた。

時代の空気や、住民の気質、町を動かす人脈とが、際立ってうまく描かれています。殺人事件だけに絞られることなく、3代に渡る警察署長と犯人のキャラが、セピア色の映画の中で一段と印象的です。おもしろい作品です。こういう描き方もあるのかと、唸りました。

サラ・ウォーターズ

【荊の城 上・下 】

19世紀のロンドン。テムズ河畔の貧しい街でスウはスリをして、たくさんの赤ん坊を預かっている育ての母サクビーと、錠前屋のイッブズ親方、ジョン、ディンティたちと暮らしていた。<紳士>と呼ばれる詐欺師リチャードが、ブライア城の令嬢と結婚して財産を手に入れる計画に、スウを侍女として加わるように言った。わずかな分け前があれば母を喜ばすことができると、スウは承知した。

だが外界と隔離された城には、令嬢モードとその伯父の、本に囲まれた時間が流れていた。リチャードは、モードが愛情を持つように仕組み、スウは計画に沿って侍女を演じながらも、薄幸なモードと心を通わせるようになる。だが、それらのすべてを操る大きな企みがあることを、スウたちは知らなかった。

下町の貧しい暮らしと、城の中の特異な暮らしが、存在感のあるものとして描かれています。一人一人の心や、気の遠くなるような長い時間をかけた計画もみごとに絡み合い、結末へと大きく転換していくストーリーも、無駄のない筆致でみごとです。19世紀という時代そのものが表題の「荊の城」であり、どこへ行っても楽には生きていけない女たち(男もそうなのですが)が、胸に痛いです。やわな自分を、照らし出された気がします。

メアリー・W・ウォーカー

【すべての死者は横たわる】

テキサスの上院では、銃砲法規制法案が取り上げられていた。記者モリーは、28年前父の死を自殺と決めつけた保安官と出会ってしまう。憎むべき相手だった。ニュースを追う一方で、バックレディ(ホームレス)のティン・カンの取材も続けていた。そして、父の死の謎を追うことも止められないのだった。噛みついたら放さない、モリーの性格は激しく、家族をも巻き込んでしまう。
ティン・カンの友人・サラ・ジェーンは寝ているホテルのテラスで、男たちの恐るべき会話を聞いてしまう。議事堂で人が死ぬ。どうしたらいいのか、わからなかった。

バックレディたちの交流や、話せない心の痛みが、印象的です。彼らも人間なのだと。ウォーカーの作は、力強く骨太です。それと人間が描けていて、アクションもあるし、映画向けの作家のようです。何作か、読んでみたいですね。

メアリー・W・ウォーカー

【神の名のもとに】

武装集団に襲われたスクールバスの運転手ウォルターと11人の子どもたちは、カルト教団の地下のバスに閉じ込められた。50日のみそぎの後、神に捧げられるというのだ。わずかな食料だけで、発狂してもおかしくない暮らしが続いていた。教祖モーディカイを説得すべく、FBIや警察が必死に動いても、事態は進まなかった。雑誌記者モリーは、モーディカイの出生の秘密を突き止める。元夫で警察のグレーディも止めようとするが、FBIの要請でモリーはモーディカイとの接触を試みることになった。

モリーが主人公なのですが、前面に出るのはむしろ事件関係者なので、シリーズ物特有の飽きがこないのがいいですね。今回は元ベトナム兵の運転手ウォルターと11人の子どもたちが、中心と言っていいでしょう。即席の物語を作って語り聞かせるウォルターが、じつにいい味を出しています。モリーや、教祖や、子どもたち一人づつまでもが描かれ、納得させるすごさ。この作家は群を抜いて、うまいです。

メアリー・W・ウォーカー

【処刑前夜】

11年前、妻が連続殺人犯ブロンクに殺されたマクファーランドは、事件を本にしたモリーに依頼した。間近に迫ったブロンクの死刑執行を記事にして、ことを荒げてほしくないと。2度目の妻と、息子と娘の精神的な安定のために。記者への報奨金という、買収の匂いを嗅ぎ取ったモリーは、目撃者となったマクファーランド家の雑用係だった青年と、娘のアリスンに再び話を聞いた。だが、モリーのもとに脅迫状が届けられ、雑誌社からは記事を載せないと言い渡される。更にブロンクが無実だと言いだした。死刑執行までのわずかな時間に、何ができるのか。誤りがないとは言えない、人による死刑は許されるのか。11年前の事件の、別な顔が見えてくる。

モリーのシリーズですが、またまたうまさを存分に楽しませてくれました。真実とは何か。人間の心の危うさ。強い意志。また、殺人犯ブロンクの詩が各章の冒頭にあり、実に哲学的で美しいという、皮肉な演出が心憎いです。

ウイリアム・アイリッシュ

【幻の女】

スコットは妻と言い争い家を飛び出して、街をさまよった。バーで酒を飲み、カボチャのような奇妙な帽子をかぶった行きずりの女を誘い、食事をし、妻と行くはずだったショーを観た。だが、家に戻ると妻がスコットのネクタイで絞め殺されていた。バージェス刑事の調査で裁判にかけられたが、スコットと女の二人を見た証人は一人もいない。死刑執行が確定した。友人のロンバードが必死に証人を捜すが、つかみそうになると口封じの殺人に阻まれた。

50年前の作品と思えないほどテンポがよく、引き込まれて読ませてくれ、最後のひねりもおもしろかったです。平凡な人間の、ある時間を証明することは、結構難しいものだろうと思います。一緒に行動した女の顔が、こんなにも曖昧で印象に残らないという設定が、成功しています。

キャロル・オコンネル

「愛おしい骨」

二十年ぶりに帰郷したオーレンを迎えたのは、時が止まったかのような家と、失踪した当時15歳の子供が撮った写真を、20年間飾り続ける銀行と郵便局だった。そして、誰かが玄関先に、死んだ弟・ジョシュの骨をひとつずつ置いてゆく謎だった。一緒に森へ行き、戻ってきたのは兄ひとりだった。なんとか弟を殺した犯人を捉まえようとするオーレンだが、家政婦・ハンナ、捜査に当たるやる気のない保安官たち、誰も来ない図書館の老女や、少年との愛を楽しむ中年女性など、次第に明らかになる、町の人々の秘められた顔に苦悩する。

人物描写に独特の構築があり、それが魅力です。ミステリの謎はおおよそ想像がつきますが、結末に至る過程の人々の絡みや思惑や、現象と言葉と真実の姿とのギャップがおもしろいです。アイロニーたっぷりの筆致で好みが分かれそうです。構成力もあるのですが、読み辛いので途中でなんどか放りだしかけました。

キャロル・オコンネル

「アマンダの影」

マロリーが殺されたと聞き、部下の報告で検視局に駆けつけたライカーが見たのは、彼女のブレザーを着た別人だった。被害者の名はアマンダ。その部屋に残されていたのは未完の小説原稿と描一匹。彼女を死に追いこんだ「嘘つき」とは誰か。高級コンドミニアムに関連を見いだし潜入するマロリー。虚飾の下に澱む策謀と欲望を暴く。

マロリーは金髪・緑の目の類稀な美貌を持ち、盗みの天才・非情にして無垢。そして、自らをも認める社会病質者です。特異な設定で幻影から真実を特定していく過程は、おもしろかったです。

ベン・H・ウィンタース

「地上最後の刑事」

半年後、小惑星が地球に衝突して人類は壊滅すると予測されている。ファストフード店のトイレで死体で発見された男性は、未来を悲観して自殺したのだと思われた。しかし新人刑事パレスは、死者の衣類の中で首を吊ったベルトだけが高級品だと気づき、他殺を疑う。同僚たちに呆れられながらも彼は地道な捜査をはじめる。世界はもうすぐなくなるというのに。

誰が嘘をついているのか。本当のことを言っているのか。パレスは事件の何かに、証言や行動の何かに引っかかてしまうのです。一緒に行動していた同僚刑事や、気のいい仲間たち、ついにはパレスまで命を狙われてしまいます。ハイテク技術のない時代と、人類滅亡の状況設定だから起きる特殊な心理、行動をじつにうまく描いています。

F・ポール・ウィルスン

【神と悪魔の遺産】

小児エイズ医療センターの医師・アリシアは、父の遺産相続で義兄トーマスからと思われる嫌がらせを受けていた。依頼した弁護士が車ごと爆破された。トーマスを調査することを依頼をした探偵は、ひき逃げ事故で死んだ。

クリスマスも近いある日、センターから子どもたちへのプレゼントが、すべて盗まれてしまう事件が起きた。子どもたちにとっては、人生最後のプレゼントになるかもしれないといいうのに。

ボランティで働いていたジーアは、恋人ジャックに助けを求めた。彼は、裏の世界の始末屋だった。犯人は警察に突き出され、プレゼントは無事戻った。

父の遺言状も不可解な部分が多過ぎ、アリシアも悪夢を封印していた父の家。トーマスの背後に何かがあると考えていたアリシアは、ジャックを信頼し、相続した家の調査を託す。次第に現れてくる、世界を震撼させるものとは何か。

快いテンポで、ストーリーが展開していきます。あまりミステリアスではないけれど、楽しめます。仕立てもしっかりしているし。意外性がないのが、ちょっと物足りない気がします。

ドナルド・E・ウェストレイク

【鉤(かぎ)】

ベストセラー作家ブライスは、妻ルーシーとの離婚訴訟係争中で原稿が書けないことに苛立っていた。そんな時、ストックを抱えながら売れない作家ウェインと、20年ぶりに再会した。

ブライスの提案は、ウェインの小説をブライスの名前で出版し、収入を山分けしようというものだった。ただし条件としてルーシーを殺すこと・・・。ウェインは妻スーザンと相談し、実行に移す計画を立てる。

ストーリーはよくあるものですが、悪夢に悩まされるブライスと、対照的に運が向いてくるウェインの心理がうまく描かれています。計画通りにいかない殺人とこころを、しっかりしたキャラが絡み合い、深いものにしています。

ドナルド・E・ウェストレイク

【弱気な死人】

金銭面で行き詰まった夫婦が、保険金をだましとろうと計画し、偽の葬式をすませる。親族の助けもあり半ばうまく行きそうだったが、邪魔が入り命を狙われる。

「渇いた季節」の反動で軽いものを読みたくて、手に取りました。お決まりのアクションシーン、ちょっとドジな夫。軽めのコメディですね。

リチャード・エイリアス

【愛しき女は死せり】

探偵のジョン・ブレイクは、新聞で10年前の恋人ミランダが、ストリッパーとして殺害されたことを知る。歯科医になっていると言っていた彼女に、何があったのか。ジョンは捜査を始める。ストリップクラブはかなり危ない仕事をしていて、店の金が紛失していることを知る。情報を得ようと連絡を取った、経営者から手ひどく脅された。

次第に闇に引き込まれていく設定が、うまくできています。キャラもしっかりしています。ただ、ありふれた題材をいかに読ませるかとなると、難しいものがあります。最後のひねりも、ある意味では使い古された手法でもあって、よくできたハードボイルドですが、今イチですね。

グレッグ・アイルズ

【24時間】

麻酔医ウィルは500人の医師の前で、最新技術で開発した弛緩薬の講演をしていた。その頃5歳の娘アビーが誘拐されてしまう。アビーは小児糖尿病で、インスリンを投薬しなければ死んでしまう。母のカレンは、主犯格のヒッキーに、アビーはその弟に、そしてウィルもヒッキーの女に拘束されてしまう。

3人の家族がそれぞれの場所からの必死の逃亡を企てるが、次々に失敗してしまう。同じ事件が数件起こっているという。昨年の被害者マクディル医師は、息子が無事に帰ったため警察に知らせなかった。身代金の額も少なかったからだが、黙っていることに耐えかねて、FBIを訪れる。

ハリウッド映画向きのストーリーとアクション。と思ったら、映画「コール」の原作でした。なかなか、スリリングでおもしろい作品です。

グレッグ・アイルズ

【神の狩人上巻・下巻】

コンピュータ・サーブ「eros=エロス」のシステム・オペをしているハーパー・コールは、会員のカリンが殺されたことを知った。

調べてみると会費の口座残高がなくなり、退会しているうち更に数人が殺されているらしい。プログラマーのマイルズとともに、犯人を追いかけようとする。だが、警察は二人に容疑をかけているのだ。fbiも同様だった。ネットを巧みに操る殺人鬼を、罠にかけることができるだろうか。

「eros=エロス」の会員が次々に殺されていくのを阻止するためハーパーとマイルズは架空の女性「エリン」を登場させ、計画通りに犯人の「マクスウェル」は、誘いをかけてきた。二人の会話は次第に熱を帯びていく。おびき寄せようとするかけ引き。

一方でハーパーは、妻のドルーの妹エリンとの過去がばれてしまうのを怖れてもいた。彼女の娘はハーパーの子なのだった。「エリン」を演じていくうちに、奇妙なことに実在の人間の心理があぶり出されていく...。

そしてついに凶悪な「マクスウェル」が姿を見せる。緊迫した状況と、複雑に絡んだ人物たちの心理の描写が、じつにうまい。全体の構成、ストーリー展開も6〜7年前とは思えない情報量で緻密に描かれていきます。長編ですが、骨太でお勧めしたい作品です。

グレッグ・イーガン

【祈りの海】

神の娘ベアトリクスを信じる社会で、マーティンは兄から信念を授かるための<儀式>を受けさせられる。海の中での神秘体験は一層の、信仰をもたらした。成長したマーティンは、微少生物の研究を 始める。たどりついた先にあるものは...。

11の短編の中での表題作です。読みながらデジャ・ヴュに捕われた。そう、岩井俊一の「ウォーレスの人魚」の持つ空気とよく似ている。海という素材がもたらすものなのかも知れない。

ラルフ・イーザウ

「緋色の楽譜 上・下」

豊かな共感覚の持ち主天で才ピアニストのサラ・ダルビーは、あるオーケストラの演奏を聴いていて、いつもの色だけではないものを見た。母から譲り受けた、「偉大なる先祖フランツ・リスト」のものだというペンダントに刻まれているモノグラムだった。さらに現れた衝撃的な一篇の詩が、サラを嵐の中に投げ込むことになる。「緋色の楽譜」と呼ばれるリストの楽譜を、奪おうとする秘密結社がサラの命を執拗に狙う。音楽によって思いの儘にサブリミナル効果を上げられる楽譜を巡っての攻防が始まる。顔立ちも煮ていると言われるサラは、リストの足跡を辿りながら、自らの出生の秘密と楽譜に込められたメッセージの意味を探るため、ヨーロッパ中を巡る逃避行を繰り広げる。

音楽を視覚的に見るという共感覚は知っていましたが、小説では初めてです。CGで表現したら楽しいだろうなと思います。楽譜を探すことが家系図を知ることになり、音楽や宗教の歴史を見直すことになる展開が、なかなかです。サラの視点でストーリーが展開し、登場する様々な人物について敵か味方かが判然とせず、サラの揺れと共振し恐怖が膨れ上がってしまいます。どきどき、はらはら。スケールもアクションも、それでいて繊細な心の動きも描き、ハリウッド映画で見てみたいと思わせました。ドイツの作家のはあまり読んだことがありませんでした。おもしろいです。

ラルフ・イーザウ

「銀の感覚 上・下」

南米の小さな村で狂信的宗教団体による集団自殺が行われ、逃げる者への殺戮が繰り広げられる。生き残った少数の大人と幼い少女は、地獄絵図の一部始終を目撃した。LAの大学で人類学者として若くして名を成すイェレミは、南米の密林に潜み心を読むという伝説の白き神々「銀の民」を追い、調査団の団長としてガイアナに調査に入る。「銀の民」の長を名乗る男サラーフを巡って、イェレミと他の団員、スポンサー企業や軍も巻き込んでの駆け引きが繰り広げられる。

共感力(テレパシー)の不思議さよりも、怪なるものは人間だという思いを改めて感じました。トラウマを抱えるイェレミの思考の強さと、歴史の断片を織り込んだストーリーは魅力的です。サラーフの造形がやや類型的な印象はありますが、ラストでの壮大な戦いはインディ・ジョーンズばりの映像描写です。作者はどんどんイメージを膨らませるタイプのようで、あちこちに飛びながらもひねりや着地をみごとにやってのけます。ぐいぐい読ませる筆致に、ますます惹かれる作家です。

ラルフ・イーザウ

「見えざるピラミッド 上・下」

現代の地球。古代エジプト文化を祖とする近未来世界アンクス。戦乱の中世ヨーロッパ的世界トリムンドス。三つの世界で同じ日に別々の世界に生まれた、フランシスコ、トプラ、レヴィルの3人の少年たちは、青いオーラを身にまとい不思議な現象を引き起こした。彼らの肩には同じ形の赤い紋章が刻まれていた。3人は野望を抱く者たちと、世界の境界を越えた壮絶な戦いに挑むことになる。

接近する三つの世界のそれぞれの構築がしっかりして、3人の個性も出ています。はらはらドキドキで、一気に読んでしまいました。遺跡として残るピラミッドの不思議を絡め、壮大な物語になっています。自分は何ものなのかを探り、不思議な力をコントロールしていく過程もおもしろいです。三つの世界の征服を目指す男たちは、どんな世界にでもあることを思い知らされます。欲望で動いていく人間のおどろおどろとした形相は、現世界でも同じようです。冒険譚としてもとてもおもしろかったです。

ラルフ・イーザウ

「盗まれた記憶の博物館 上・下」

博物館から美術品が盗まれ、警察が双子の姉弟の家に調べに来る。そこには見知らぬ男の写真があった。双子の姉・ジェシカも、弟・オリバーもその男の記憶がなかった。しかもその事を「忘れていた」ということに気づく。「忘れられた」父親が働いていた博物館にある「イシュタル門」と「クセハーノ像」の謎を解こうとすると、オリバーまでがそのイシュタル門をくぐって、別世界「クワシニア」へ行ってしまい、ジェシカに「忘れられて」しまう。だれかがわたしたちの記憶を消そうとしている。ジェシカは現実世界でインターネット駆使し、オリバーは失われた記憶の世界で人脈をひろげ、父親を捜すことになる。

はらはらさせられる展開と、夢のようなストーリー世界に、すっかり引き込まれてしまいました。千夜一夜のシエラザードが持っていたガラス細工の小鳥や、ナポレオンの外套、アーサー王の円卓や、歴史の本やもろもろの小説の中に出てくる人物や小道具ひとつひとつが、生きて、しゃべって、喜んだり、悲しんだり、怒ったりして、とにかく楽しいのです。もはや児童書の域を軽々と超え、壮大な広がりを見せてくれます。すごい作家ですね。何作か読んでみるつもりです。ハード・カバーで重いのだけが欠点です。

ダニエル・アラルコン

「ロスト・シティ・レディオ」

行方不明者を探すラジオ番組「ロスト・シティ・レディオ」の女性パーソナリティーのノーマのもとを、ひとりの少年・ビクトルが訪ねてくる。ジャングルの村の人々がビクトルに託した行方不明者リストには、ノーマの夫・レイの名前もあった。次第に明らかになるレイの過去、そして暴力に支配された国の姿が立ち上がり、人々を飲み込んでいく。

目的も明らかにされない内戦状態の国で、ジャングルにある一七九七村は周囲から隔絶されていたのです。貧困な暮らしから抜けるには、都市部に脱出する以外にありません。けれど出て行った若者たちは二度と村に戻ってきません。残された家族の思い、そして都市部でも幾重にも張り巡らされた監視網に囲まれた不自由な暮らしがあります。都市とジャングルを行き来していたレイが、捉えられた施設「月」の悲惨さに絶望したくなります。ノーマの思い、レイの行動、ビクトルの夢はどうなるのでしょう。不安や闇に包まれた全体の雰囲気でありながら、ラジオから流れる美しい声、雨の情景などが詩的に美しく、ささやかな希望を胸に残してくれます。

スコット・ウォルヴン

「北東の大地、地上の西」

メイン州を転々とし、最後はヴァーモント州の伐採場に仕事を見つけたおれは、毎日チェーンソーを手に木と闘っていた。八月、伐採場の土のリングで二人の男が対峙する。ヒスパニックのエル・レイは間もなくプロデビューを予定する賭けボクサー、対するトムは腕っ節自慢の酔っ払いだった。荒くれたちがなけなしの金を賭けるなか、試合が始まる。そこがどんな場所でも、人生をしくじり、罪を犯し、麻薬にとらわれ、自分自身を裏切ったあげくに逃げ込んだ場所で、男たちは生き続ける。

チェーンソーの鋭い響きが切り裂く森の空気や、男たちの呼吸音まで聞こえてくる描写が、容赦なく行き詰まった状態の彼らを浮き上がらせていきます。絶望寸前の状態での、そのときどきにできることをしてくしかありません。銃社会のどん底から這い上げる先に、かすかにでも希望が見えるのであればいいのですが。読んでいて気持ちが重くなりました。

H・G・ウエルズ

【タイムマシン】

映画になり公開されるのを知らずに、文庫を読みました。30年くらい前の作品だとは思えない、発想のおもしろさです。今ならCGを駆使して映像的にも、脚本的にもおもしろくできそうです。

タイム・トラベラーは、自宅で医師や心理学者などを相手に、タイムマシンの理論的説明をする。ほとんど信じられない皆に、彼は庭にある半ば完成しているマシンを見せる。

そして、一週間後皆は再び彼を訪問すると、料理を待つ席に彼は服はほこりだらけ、泥まみれで、緑色のものが袖にこびりつき、紙はぼさぼさ、おまけに怪我までして現れた。たったいま、タイムトラベルから戻ってきたというのだ。80万年後の未来世界。知力の退化した地上種族と、光を恐れる地下種族の社会だというのだった...。

理論的な説得力のあるおもしろさが、不思議な作品です。

アーヴィング・ウォーレス

【ザ・マン 上・下】

アメリカの大統領一行が訪問先で事故で死亡。次席の大統領継承者も。

そして就任したのは、上院のディルマン。問題は彼が黒人だったことから。名誉ある偉大な人物が選ばれるその地位に着いた彼を、襲いかかる事件。ついに弾劾へと追い込まれる。

アメリカの民主主義に対する誇り。人種差別の根源への提起。一人の人間としての威厳。さまざまな重いテーマをミステリータッチで読ませてくれた。20年前にこんなすごい作家がいたなんて。

アーヴィング・ウォーレス

【奇蹟への八日間 上・下】

19世紀のルルドの洞くつで、貧しい農家の娘ベルナデッドの前に聖母マリアが現れ、さまざまの奇蹟が起こる。そして、20世紀の現代に再び姿を表すと彼女の日記が記していたと、ヴァチカンが正式発表をしたため、全世界が沸き立つ。

報道陣、奇蹟を願う世界中からの人々が集まってくる。ソ連の政府要人、テロリスト、ジャーナリスト、それぞれの思惑がからみ合い「その日」へとルルドは熱くなっていく。人間と宗教とのかかわりを、ドラマチックに科学的に描かれていく。力作です。

アーヴィング・ウォーレス

【七分間】

ウォーレスは裁判の描き方が一番光って見えます。弁護側のものだけかもしれません。しかも、初めは苦戦する。陪審員の心理や裁判官の心理を読みながら論理を展開していく。決定的な証拠や証人をなんとか持ち込もうとする。そしてみごとな逆転劇。感動的です。

この作品は、「七分間」という本が『文学』か『猥褻(わいせつ)』かが問われます。「チャタレイ」裁判もこうだったろうか。非難の嵐の中をバレットは、必死に持ちこたえついに大物を証人に出してくる。裁判のあとの検察官との会話が印象に残る。「お互いに信じている不正義不真実と戦う」アメリカらしい作品です。

アーヴィング・ウォーレス

【オールマイティ 上・下】

新聞社という遺産を手にする条件のために、アームステッドは決意する。「世界中が驚くようなスクープをモノにするぞ」。

スペイン国王誘拐、イスラエル首相暗殺。世界のビッグニュースを記事にし、彼は新聞界のオールマイティになった。しかし、その背後の秘密に気づいた女性記者がいた。

ウォーレスの作品の中で、一番ひねりが少ない。まっすぐ過ぎるストーリーに難がある?クライマックスも、もうひとつかなと思った。読ませる力はあるのだが、意外性がなかった。

アーヴィング・ウォーレス

【『新聖書』発行作戦】

イエスは十字架に掛けられた後も生きていた。オスティア・アンティカで発見されたイエスの弟が記した福音書。新編集の聖書発行を目指すプロジェクトに、ランダルは加わるが、次々に疑問と妨害に出会う。

20年前に書かれた作品とは思えない。キリスト教徒ではないわたしだが興味を持って読み、信仰というのはこういうことなのかと、うっすらと形が見えたような気がした。

ポール・オースター

「偶然の音楽」

妻に去られて傷心の消防士のナッシュに、突然20万ドルの遺産が転がり込んだ。何かに突き動かされるように赤いサーブに乗り、アメリカ全土を駆け巡った。財産を使い過ぎて底が見えてきた時、ポーカー賭博の天才.ポッツィと出会う。古城で開かれる賭博に加わり、逆に借金を作ってしまった二人は、壁の石積みの労働で対価を支払うことになる。

この世に執着を失ったナッシュの心理が、うまく出ています。無意味とも思える、終わりが見えない石積みの作業の疲弊感がリアルです。まるで人生の縮図のようです。そしてラストの急変とひねりに、息を飲みました。うまいなと、感心してしまいました。他の作品も読んでみたいと思っています。

ポール・オースター

「幽霊たち」

ニューヨークの探偵・ブルーに、変装をしていると人目でわかるホワイトから、ブラックという人物の長期の調査依頼があった。ブラックの真向かいのアパートの一室が与えられ、週一回の報告書を送ると、報酬の小切手が送られてくる。作家なのか毎日机に向かうブラックは、単調な日々を送っていた。ブルーは次第に恋人と会おうという気持ちが薄れてくるほど、ブラックの監視にのめり込んで行く。

なんとも不思議な味わいの作品でした。ブルーがブラックを深く知って行くことで起きる、いら立ちが読者にも感染してくるのです。もう、やめようよと思うと、ブルーがブラックへの接触を試みます。そして女とレストランに入るブラックと、同じ食事をし観察するブルーとが、奇妙に同化して見えてくるのです。まるでメビウスの輪のように、次第にどこが始まりでどこが終わりなのか、自分は誰で相手が誰なのかが、曖昧になって行く世界に目眩がしそうです。モノクロ映画で無音声で、ブルーの内面をナレーションで流しているような雰囲気です。122ページの短さの中に、平凡な日常から破綻し狂気に捕われて行く、濃縮されたストーリーが詰まっていようとは。3部作のほかの2作も読んでみたいと思いました。

ポール・オースター

「鍵のかかった部屋」

批評家の「僕」のもとに、親友ファンショーの妻・ソフィーから、夫が失踪し依頼したい件があると連絡が入る。幼い子を抱いたソフィーが、ファンショーの膨大な書き残した作品を出版できないかと持ちかける。原稿を読むにつれ、子どもの頃からのファンショーを思い出し、出版に漕ぎ着ける決意を固めた。そしてソフィーへの恋心から結婚も申し込む。ファンショーの本からは決められた手数料が入り、暮らしの心配もなかった。そんな時、差出人がない手紙が来た。出版への礼と、ソフィーと子どものことを頼むということ、手紙の件を秘密にしてほしいというものだった。衝撃を押し隠し、「僕」はファンショーの伝記を書こうと考える。

確かな始まりがあるストーリーのはずが、いつもまにか「僕」とファンショーの境界が曖昧になっていく、迷走の世界でした。しかも破滅に向かって突き進んでいくのです。自己と他者との区別が曖昧になる狂気と、現実への着地の葛藤がみごとに描かれています。記憶や思い出という、曖昧さも見つめる機会になりました。オースターの3部作のひとつです。おもしろいです。

ブライアン・オールディス

【スーパートイズ】

映画「a・i」の原作の短編集です。

仕事で留守がちの家を守るスウィントン夫人の心をなぐさめになる、息子のデイヴィッドとテディベア。けれど、どんなに二人がママを愛しても、彼女のうつろな心は、彼らを愛せない。

ぼくたちは、ホンモノだ。そのことを証明しようとデイヴィッドは...。

デイヴィッドの悲しみが、響いてくるようです。愛してもらえないことが、こんなにつらいなんて。

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