小川洋子

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作品名出版社
博士の愛した数式新潮社
やさしい訴え文春文庫
余白の愛中公文庫
密やかな結晶講談社文庫
まぶた新潮文庫
薬指の標本新潮文庫
完璧な病室中公文庫
寡黙な死骸・みだらな弔い中公文庫
偶然の祝福角川文庫
妊娠カレンダー文春文庫

「博士の愛した数式」

博士は、わたしの息子をルートと呼んだ。頭のてっぺんが、ルート記号のように 平らだったから。という書き出しがまず、うまいと思いました。

交通事故で脳に損傷を受け、80分しか記憶を保てない博士はたくさんのメモを、 背広にひらひらと貼付けている。母屋の義姉の依頼で、管理組合から家政婦とし て派遣されたわたしは、名前も顔も覚えてはもらえないのだった。毎朝同じ自己 紹介をして、淡々と仕事を続けるしかない。

最初の言葉は靴のサイズの質問だった。24は、潔い数字だとほめられる。1から 4までの自然数を全部掛け合せた数字だと。更に電話番号の576-1455は、1億 までの間に存在する素数の個数に等しいと。

10歳の息子が鍵っ子なのはよくないと、博士は主張し一緒に来るようになった。息子は 抱擁され、歓迎を受けた。博士が最も愛したのは、素数だった。いつかわたしも、数字 に興味を持つようになる。

せつないです。でも、よくある話では決してありません。数字の世界があり、家政婦と 息子という日常の世界が織り込まれ、息子と野球の世界が交差する絶妙なバランスの 不思議な存在感は、感動的ですらあります。小川さんの知らない顔を見せてもらいま した。


「余白の愛」

夫と離婚話が進行中だったわたしは、突発性難聴になり、耳の奥に横笛の音を聞いていた。 軽くなったとき、特集記事のための座談会に出席した。「Y」は、速記者だった。Yの指は、 わたしが話すときも影のようにひっそりと寄り添い、少しの澱みもなくボールペンを走らせた。 美しい指だった。

再入院したわたしのもとを、編集者から校正刷りを持ったYが訪れた。わたしは小さな声で話し、 Yは筆談で話した。青いレース模様のようなYの文字を書く指に、さらに惹かれていった。

繊細な、静かな世界に響く美しい音。13歳の記憶のヴァイオリンを弾く少年。博物館のべートー ベンの補聴器。ジャスミンの香り。甥のヒロとの交流。なんという危うい世界を、小川さんは 書くのでしょう。Yの指を実にセクシーに、ひらりと見せてくれます。たぶんそれしかないという 結末の悲しさ。すっかり、小川さんの世界に、絡めとられてしまいました。


「やさしい訴え」

文字を手書きするカリグラファーを仕事にしている留璃子は、夫から逃れて母の別荘で過ごして いた。知り合ったのは、チェンバロ作りに情熱を注ぐ新田氏と、助手の薫さんと、老いた犬のドナ。 別荘の世話をしているペンション「グラスホッパー」の太った奥さん。深い森の中で、静かに、 美しい時間が過ぎていく。しかし新田氏と薫さんとチェンバロの間に、入り込みたいと願う留璃子 の思いが、次第に激しい感情となり、森は嵐が吹き荒れてしまう。

納品したチェンバロが返品され、新田氏が斧で叩き割るシーンは、なかなか衝撃的です。指への こだわりはこの作でもありますね。音楽がとても効果的に描かれています。しかし、いつのまにか 小川さんの奥の「湖」がとてつもなく深く、激しいものなのに、あやうい薄氷の上のスケーター だったことに、気がつきました。もうしばらく、小川さんに絡めとられてみましょうか。


「密やかな結晶」

「この島に住んでいる限り、心の中のものを消失していくの。なくしたことさえ、記憶から 消されてしまう」亡くなった母が、わたしに語ってくれる言葉だった。ひっそりと開けて みせる引き出しにはリボン、鈴、エメラルド、香水、切手・・・。どんな意味を持つのかも 知らないわたしは、ただ、母との大切な時間をそうやって過ごしてきた。

鳥が消失した日、近所の人たちは、かごから鳥を空に放ってやった。秘密警察がやってきて、 亡くなった父の書斎から、研究していた鳥に関するすべてを速やかに持ち去っていった。だが、 母と同じように、記憶を失うことができない人がいるらしいと、噂されていた。

何かをなくした小説を書いているわたしは、記憶を持ち続けている、乾教授の訪問を受ける。 秘密警察に出頭する前に、預かってほしい物があるという。乾教授をなくしたくないわたしは、 地下室にかくまうことにする。

あらゆる物が消失していくという物語は、ひどく哀しいです。カレンダー、そして本までが 消えていくストーリー。左手、目、頬と消失していくと、それはもう小川さんの強い意志を 感じさせます。すべてを消してしまいたい願望でしょう。この作品を書くことで、デビュー作 から苦しんだ深い傷の痛みから逃れ、生まれ変わりたかったのでしょう。転換点になる作品 だったのだと思いました。


「薬指の標本」

わたしは標本室で受付の仕事をしていた。経営者で標本技術士の弟子丸氏と二人だけの、静かな 仕事場だった。例えば16歳の女の子が、家が火事になり家族が亡くなり、焼け跡に生えた きのこの標本。楽譜に書かれた音の標本。やけどの傷跡の標本。特別な標本なのだ。

ある日弟子丸氏から、足にぴったりの靴をプレゼントされる。そして浴室での不思議なデートが 始まった。

フランスで映画化されるようです。確かに、そういう仕立てになっていると思います。静かで、 人物も物も、細やかなの描き方が効果的です。特別な世界が、この作でも危うく、完結しています。 こんなに書ける人だとは思いませんでした。


「まぶた」

ウイーンへの出張の飛行機の中で、古書を仕入れにいくという隣り合わせた男が、話しかけてきた。 仕事もプライベートも疲れていたわたしに、飛行機で眠るための、人は固有の眠りの物語を持って いるはずだと。男の物語に、わたしは不思議に引き込まれていった。

15年前に隣り合わせた老女が、30年も文通していた日本人のペンフレンドが亡くなり、ウイーン から彼の墓参りをしてきたという。大学で免疫学を教えていると言ったが、じつは研究室の用務員 さんだった。写真は送ってもらったものとは別人だった。よくある話だが、手紙の送り主に恋を していたし、二人だけの真実があったのだからそれでもよかったと。

老女の雰囲気に感じるセピア色の世界と、あやうさがうまく描かれています。短編集です。 1作づつはいい話で終わるのですが、全体を通して伝わってくるのは、深い哀しみでした。人間の 存在の哀しみというのでしょうか。小川さんは、胸の奥に青い湖を持っているのですね。


「完璧な病室」

たった二人きりの姉弟で、その弟が骨髄の不治の病にかかった。わたしの勤務している 病院に入院したので、仕事が終わると病室に付きっきりになった。清潔なベッドの上で、 弟は完璧に穏やかで、完璧にやさしかった。次第に食が細っていく弟が、唯一食べられるのは コールマンという、ぶどうだった。必死になって買い求め、弟の口に運んだ。外界から閉じた 病室だけが、わたしの世界だった。

小川さんのわりと初期の作品で、4編の短編集です。家族を失っていく時間の経過が、しんと した無音室のシーンのように描かれています。この頃は、まだ小川さんはひどく傷ついている 時期のようです。読んでいて、その痛みの中からのあがきが伝わってきて、わたしの気持ちも とても痛いです。けれど、紡ぎ出す繭の糸の世界の、なんという魅力的なことでしょう。


「寡黙な死骸・みだらな弔い」

初めての洋菓子店には、人がいなかった。しばらく待つことにした。6歳で壊れた冷蔵庫の中で 死んだ息子のために、どうしてもケーキをほしかった。香辛料を卸しているという老婆が入って きた。イチゴのショートケーキが店一番の自信作だと話し、わたしは息子のことを語り始めた。

生き返らないと分かってからも、イチゴのショートケーキをそのままにしていた。毎日毎日、 それが腐っていくさまだけを眺めて過ごした。捨ててしまえと、夫が怒鳴った。わたしは夫に ケーキを投げつけた。死んでいくものの匂いが、した。

6つの短編集です。この作品は、不思議の雰囲気がただよっています。少し、痛みをラップし始め たのでしょうか。


「偶然の祝福」

7つの短編集です。特に印象的だったのが「盗作」です。

21歳の弟が、ささいなことから不良グループの少年たちに殴り殺された。すべてが、ひと息に 何もかもが悪い方向へ向かっていった。葬儀のあと、浴室の水道を閉め忘れて部屋を水浸しにし、 アパートを追い出された。弁償金を払い、新しい部屋に移った。同じ病院に勤める恋人が、横領の 容疑で逮捕され、貢がせた女だと噂され、職を失った。1年かけて書き直しをした小説は、全部の 出版社から突き返された。

書けないことはさらに、わたしを衰弱させた。家賃の支払いの相談に出かけた途中、わたしは 車に跳ねられた。3ヵ月後、退院してリハビリに通ううち、弟が入院しているという女性と知り 合いになった。彼女から、水泳選手だった弟さんの話を聞くようになった。その夜、わたしは 書きはじめた・・・。

オチのある、不思議の物語です。この頃も、小川さんは傷が深かったのですね。


「妊娠カレンダー」

義兄と姉と、わたしは一緒に住んでいた。姉が妊娠した。つわりや通院の一部始終を、わたしは 見ることになる。雨の降る夜、突然枇杷のシャーベットが食べたいと、姉が言い出した。『わたし の中の「妊娠」が求めているの』と。おろおろする義兄。食べ物がいくらあっても足りなかった。

バイト先からもらったグレープフルーツでジャムを作った。頭の中では、防カビ剤の危険を警鐘 するパンフレットを思い出していた。喜んで食べる姉のために、わたしはジャムを作り続けた。

小川さんのデビュー作です。新刊で読んで嫌な感じが残っていたのですが、ほとんと忘れていた ので改めて読んでみました。やはり、とても後味が悪いのです。他の短編も、どこか毒があります。 どの辺りから、うまく毒をソフィスティケートするようになったのでしょうか。最近作は、 蝶に変身したものばかりです。いろんな痛みとの距離感を取れること。作品としての大事な 要素かも知れません。

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