阿川佐和子

「正義のセ」

豆腐屋の両親の苦労を見て育った凛々子は、子供の頃から正義感が強かった。念願の検事となり意欲に燃えるものの、苦戦の連続だった。そのうえ恋人から結婚と仕事の選択を迫られたり、同期の親友が不倫スキャンダルに巻き込まれたりする。同僚や先輩、刑事や家族に支えられながらひとつずつ難関に挑み、成長していく。

素直で明るい文体が、さわやかです。事件を重くせず、検事の仕事を積み重ねていく軽やかな成長物語です。ただ事件も視点にも新しさはなく、眠くなります。

新井(おう)區鳥=漢字変換不能=子・高橋幸代

「ひとさし指のノクターン~車いすの高校生と東京藝大の挑戦」

東京藝術大学が2015年に行った『障がいとアーツ』というイベントで、肢体不自由のある4人の高校生がステージでピアノを演奏するまでの記録。「ピアノが弾きたい! 」という強い思い。片手で弾くためのテクニックや工夫、メロディに追従して伴奏をつけるというピアノの演奏追従システム、そして演奏に合わせてペダルを踏む仕組みなど、東京藝術大学の研究者はヤマハの技術者たちの力を借りながら、高校生たちの演奏をサポートし、「音楽的」な演奏に仕上げていく。

何ができて、何ができないのかを判断し、4人それぞれがピアノに対しての思いを感じ取り、技術的、機械的にサポートするというのは、難しいことなのだと改めて感じました。楽器メーカーの忙しさの中で、思いがけない発想で作り上げていく熱意はすごいです。感動ものではなく、理論的に客観的な視点で描かれているからこそ、演奏会での笑顔から喜びが伝わって来るのです。ピアノを弾きたい。わたしもそう思いました。

阿部智里

「烏に単は似合わない」1巻-6巻

我孫子武丸

【弥勒の掌】

3年前の浮気で冷めたくなっていた妻・ひとみが、家出をした。教師の辻恭一にとっては覚悟していたことだった。だが同じマンションの怪しげな宗教に熱を上げている坂口が警察に通報し、殺人の疑いを持った警官が事情を聞きにきた。辻恭一は坂口から「救いの御手」の情報を得て、ひとみが関わっていると推測し、探しに行くことにした。だが、思いがけず妻を殺された蛯原刑事が近づいてくる。

教師と刑事の二つの側から進展するストーリーを絡ませ、よくある宗教団体事件に広がりを持たせ、さらに最後の急展開は感心させられます。そこまでやって見せるのかと、痛快でさえあるのです。なんでしょうか、このにやりとさせられる味付けは。したたかな作家の顔が見えるようです。

大崎 梢

【配達赤ずきん】

成風堂書店の杏子は、あいまいな記憶で本を依頼する客と、必死に対応している毎日だった。入院していたという女性が、本選びのお礼に来た。男性店員が選んでくれた6冊の本。誰なのか、思いつかなかった。アルバイトの多絵がその謎をするりと解いてみせた。・・・「六冊目のメッセージ」

こちらがデビュー作で、5編の短編集です。大崎さんは、短編がうまいのではないかと思います。これは「理想の店員がいる、理想の本屋」では、ないでしょうか。本が好きなのだが、力仕事をしてばかり。ちょっとだけアイデアを出して、ディスプレイをがんばってみたり。その中で起きる小さな謎を解決していくと、人の優しさが見えてくる。かわいらしく、やさしい雰囲気が漂っています。本屋さんの、おいしい裏話もうれしいです。

大崎 梢

【「晩夏に捧ぐ」成風堂書店事件メモ(出張編)】

成風堂書店の杏子に、もと同僚でいまは「まるう堂」で働いている美保から、助けを求める手紙が届いた。「まるう堂」に幽霊が出て、店がつぶれそうだという。法学部の学生アルバイト・多絵(名探偵)と一緒にきてほしいと。行ってみると、50年以上前、文豪殺人事件の犯人とされた書生の幽霊だという。さっそく調べ始めると、意外な背景が見えてきた。

素直な文章で、本屋というおいしい設定に引かれて読みました。展開もしっかり考えていると思いますが、何か強烈なものが欠けているような気がします。これから変貌するのかも知れませんが。

大崎 梢

【サイン会はいかが? 成風堂書店事件メモ】

2作の同じ本に4人からの注文依頼が入る。しかも確認の電話をすると、注文していないという。成風堂の店員・杏子は、推理が鋭いアルバイトの多絵と一緒に、謎を解こうとする。「取り寄せトラップ」

5編の成風堂シリーズ短編集です。書店の雰囲気がいいし、なかなか大変な仕事なのだと、改めて感じさせてくれます。もちろん、謎に迫る経緯が楽しめますし、題材へのまなざしが暖かいのです。事件の原因を作った人も含めて、こういう家族や友人たちがいたらいいなと、うらやましくなります。自分の日常と、つい比較してしまいます。本好きにはたまらないシリーズですね。

大崎 梢

【片耳うさぎ】

小学校6年生の奈都は、父の仕事の都合で引っ越してきた父の実家は、古くて大きなお屋敷だった。母も急用で戻れない日、寂しくて心細い奈都の家に、同級生の「ねえちゃん」が来てくれることになった。大胆な中学三年生のさゆりと一緒に、「家」の言い伝え、他人のような親戚や過去の事件の秘密や、屋根裏や隠し部屋を探っていく。

書店員シリーズとは別な、小さな日常からはみ出した、ほんの少しミステリアスな世界を描いています。6年生の奈都と中3のさゆりの設定が微妙に、うまいです。感傷的ではなく、しっかり芯のあるキャラなので、構成もきちんとしたものになっています。大崎さんの世界が、広がっていくようで読者としてはうれしいです。

大崎梢

「平台がおまちかね」

明林書房の新人営業マン・井辻は、書店巡りをして行く中で、店の喜びや苦しさ、思いを次第にわかっていく。同業者・真柴たちとのコミュニケーションも取れてくる。小さな書店が力を入れ平台に並べられている作家本の謎。いつのまにか本の並び順が変わっている謎。新人賞受賞作家が授賞式から行方をくらます謎。5編の謎解きが絡む短編連作集。

いままでのシリーズの書店員視線では見えなかった、出版社の営業の側から描かれて、興味を引かれました。書店の平台に、自社の本を並べたいという営業員同士の思いや、書店の経営者とのやりとりも巧みに描かれています。本に関わる人たちの静かな熱い思いに、ちょっと胸が痛くなるいい作品だと思います。大崎さんのしっかりした構成力を、改めて見せつけられました。各章の業務日誌風の部分も、静かにフェイドアウトする印象的な部分です。

大崎梢

「夏のくじら」

都心の高校から、祖父母の住む高知大学に進んだ篤史は、4年ぶりに「よさこい祭」に参加することになった。衣装や音楽や振り付けを決め、踊り手を募集して練習に入る。篤史には中学生の夏休みの果たせなかった、約束があった。「いずみ」という名前を手がかりに、その人を捜し始めたが、情報はなかなか集まらない。篤史は祭本番に向け、熱くなっていくチームと次第にひとつになっていく。

大崎さんの書店シリーズとはまったく違う、新しい世界がありました。丹念に調べ、「よさこい祭」に織り込むストーリーを構築したのでしょう。祭の特有の浮遊感や、街の空気も、とても新鮮でした。衣装や踊りへのこだわりや思いも、すべてを飲み込んでいく奔流に、飲み込まれていくようでした。ベタになりがちなラストも、きっちりと描き込んで好感が持てました。作品世界を広げるというのは、大変なことだと思いますが、大崎さんはさらりと駆け上がった気がします。

大崎梢

「キミは知らない」

高校2年の悠奈は、言葉を交わすようになった非常勤の津田先生に、研究者だった亡父の手帳を渡した直後、先制が突然姿を消した、ほのかに想いを寄せていた悠奈はわずかな手がかりから後を追う。ところが再会したのは穏やかな先生とは別人のような鋭い眼差しの男だった。さらに悠奈の前に「お迎えにあがりました」と謎の男たちが現れ拉致され、大富豪の家で手厚く迎えられる。

行く先々で謎の人物と事件に巻き込まれていく悠奈と、一緒に真相を追いかけていく気分になります。父の死の謎から巫女の家系、大富豪との繋がりなど、展開がめまぐるしいけれどおもしろかったです。ラノベへの転換かも知れないと思わせる書き方でした。イケメン男たちの登場はサービスだとしても、悠奈のキャラ設定が最初は小中学生かという思考・行動なのは、連載中の変化だと思うので、書き直すべきだったのではないでしょうか。読み止めようかと思っていたところだったので、ぎりぎりセーフでした。次作に期待です。

大崎梢

「スノーフレーク」

車ごと海に飛び込む一家心中で、幼なじみ・速人は死んでしまった。六年後、高校卒業を控えた真乃は、友人から彼とよく似た青年を見かけたという話を聞く。ほんとうは生きているのかもしれない。かすかな希望を胸に、速人の死にまつわる事件を調べ始めた真乃だったがそんな真乃自身も速人そっくりの人物を見てしまい、さらに速人の命日には速人のいとこ勇麻が現れる。

真乃が、知りたい一心で聞き込を続け、速人の家庭の事情や心中の真相、速人の死体があがらなかった理由までが次第に明らかになっていきます。ストーリーの展開も、関わる人たちの心理までうまく描き出し、用意されたラストが切ないですね。大崎さんは文章もうまくなったと思うし、いろんな分野に挑戦する姿勢が好きです。今回の作品は主人公が女子高校生という設定なので、あまり女の子の細かい心理が苦手なわたしは、別な分野を描いてほしいというわがままな願いでいます。

大崎梢

「ねずみ石」

中学一年生のサトには、四年前の祭りの一部分の記憶がなかった。子供向けイベント「ねずみ石さがし」の最中に、道に迷って朝まで行方不明だったのだ。同じ夜、少女の殺人事件が起こり、刑事にその時何かを見なかったかとしつこく聞かれた。さらに殺人事件が起き、友達のセイも一緒に巻き込まれていく。

祭りの臨場感と、少年たちの心理描写がうまいですね。大崎さんのミステリは、水の流れのように自然にするするとたぐり寄せられ解決します。少年の視点という制約は、いい点と物足りなさの悪い点の両面が出ます。もっと本格的なミステリに大胆に取り組む、前段としては評価できると思います。

大崎梢

「背表紙は歌う」

書店営業仲間の女性が気にしていたのは、「地方の小さな書店が経営の危機にあるらしい」というものだった。個性的な面々に囲まれつつ奮闘する井辻くん(ひつじくん)は、よくある悲しい噂のひとつだと思っていたが・・・。

厳しい出版社と書店の吹きさらしの街に、木漏れ日の日だまりのような暖かい話です。出版社と書店、あるいは出版社と作家の間にある裏話を読めるのがいいですね。このシリーズも好きですが、ちょっと物足りなくなってきました。別なシリーズを作って、容赦のない業界をバッサリと切ってほしいという気がします。

大崎梢

「クローバー・レイン」

老舗の大手出版社に勤める彰彦は、過去の人と目されていた作家の素晴らしい原稿を偶然手にして、どうしても本にしたいと願う。けれど会社では企画にGOサインが出ず、いくつものハードルを越え、本を読者に届けるために、彰彦は奔走する。次第に出版社内の人々に加えて、作家やその娘をも巻き込んでいく。

男性社員視点での描き方には、心理的に多少の無理がありますが、丁寧な調査をして描いた努力は、いい方向には向いて入ると思います。そんなに出版社内部は甘くはないと知りつつ、甘さを完成させるのも1作ならいいかも知れません。書店員、営業、編集者へと筆の段階は進んでいるので、あと一歩の突っ込みを次作で期待したいです。

大崎梢

「かがみのもり」

新任の中学教師・片野厚介のもとに、クラスのお騒がせ男子生徒コンビが金色に輝くお宮の写真持ち込んだ。立ち入り禁止になっている神社の裏山にあったという。お宮をめぐって接触してくる、怪しい新興宗教、行方不明の信者を探す興信所の調査員や謎の美少女中学生まで絡んでくる。降りかかる事態をうまく収められるか。

無駄な文章が多く、キャラ立ちがはっきりせず、展開も持て余し気味です。対象読者の層もどっちつかずで、大崎さんには合わない方向の作品だと思いました。次作に期待します。

小野上明夜

「死神姫の再婚 怪物王子の死神姫(16)」

着実に終わりが近づく王城で、ゼオルディスは強引にアリシアとの結婚式を行おうとする。だが、とうとう本物の「王子」が戻ってくる。西の大国クルセージュの兵力を借りたカシュヴァーンは、囚われのアリシアを救うため王城に乗り込む。

強引なゼオルディスとの結婚寸前に駆けつける夫・カシュヴァーンたちという、ラストにふさわしい乱闘シーンと心憎いゼオルディスの退場シーンがいいですね。祝福されて改めて執り行われるアリシアとカシュヴァーンの結婚式も、登場人物総出演になり終わらせました。シリーズ物を初めて読み、続刊を待っていらいらしつつラストまでなんとか読み終わりました。やはり性格的には単刊で読もうと思います。

小野上明夜

「死神姫の再婚(15)ひとりぼっちの幸福な王子」

首に輪をつけ鎖でゼオルディス国王に引かれている囚われの身のアリシアは、国王が望む「幸せな結末」の物語を書こうと考え続けていた。創作の参考に、幽閉中のグラネウスを訪れるが、そこにはライセン家の「家族の肖像」があった。最愛の夫・カシュヴァーンの姿にアリシアは涙を流す。しかし、突然その絵にゼオルディスがペンキをぶちまけた。

シリーズ物は止めようと思いながら、目にするとつい結末が気になり購入してしまいます。年に3作ですから、ストーリーはなかなか進みません。 今回はゼオルディス国王の裏も表もすべてを見せています。究極の自傷行が振り向けさせるものに、唸ってしまいます。悪役をここまで描くと、人間的で立ち位置で悪役にも善役にもなり、作者の愛情さえ感じます。 それにしてもラストまであと何作待たなければならないのか、せっかちなわたしはいらいらが募ります。

小野上明夜

「死神姫の再婚(14)目覚めし女王と夢のお姫様」

各地で反乱が大きくなっていくシルディーン王国。カシュヴァーン生存を信じるアリシアは、不穏な空気の王宮で助けを待ち続けていた。ゼオルディスはますますアリシアに結婚を迫り、あわやという事態になる。一方でオーデル地方反乱鎮圧のため、ゼオルディスは無謀なラグラドール人派兵を決定し、それを知ったエルティーナが城を出て行方不明になる。

不穏に動き揺れる展開です。そろそろラストがほしいと思ってしまいました。なぜかハマってしまったラノベですが、わたしにとって楽しみなシリーズ漫画の位置づけですが、飽きっぽいので、次作が4カ月後というのはつらいです。最後まで読めるでしょうか。 それにしても、大事なシーンでの人名誤植に、息を止めてしまいました。ありえないでしょう。

小野上明夜

「死神姫の再婚(13)誰にも言えない初恋の君」

王宮へ連れて来られたアリシアは、夫・カシュヴァーン追放撤回を要求するが、楽しげに笑う王によって図書館地下の牢に幽閉されてしまう。そこへ現れた「息子」ルアークが、わずかなカシュヴァーンの情報を伝える。

王の最高位にいる者の、光と影がくっきりと描かれます。かろうじて危険から身をかわすアリシアにはらはらです。王やルアークの想いも、断固として蹴飛ばし、強くなったと思います。その頃心身ともに傷を負ったカシュヴァーンが、密かにアリシア奪還を心に決めて、以下次号に続きます。

「死神姫の再婚(12)定められし運命の貴方」

小野上明夜

ゼオルディス王の宣言により、神の前で宣言しなかったカシュヴァーン夫婦の存在が否定され、領地と爵位を取り上げ傷を負わせ追放してしまう。アリシアも元のフェイリントン城に戻り、一人で暮らすことになった。だが窮地を救った「時計公爵」ディネロに、結婚を迫られてしまう。

思いがけない、カシュヴァーンの追放という展開でした。王の狙いは着々と進むように見え、はらはらします。だがアリシアの必死の願いで、事態は光が射してきます。と、いいところで次作へ続きます。発行を待つというシリーズ物の魅力に取り付かれました。

小野上明夜

「死神姫の再婚(11)始まりの乙女と終わりの教師」

B's-LOG文庫

2011.10.5

春の日差しが降り注ぐ王宮の中庭では、華やかな式典が催されていた。「宰相による国王暗殺」という衝撃的な事実が発表されると共に、ゼオルディス王子の即位が決定したのだ。戴冠式と結婚式が同時に行われ、王宮に滞在中だったライセン一家も参列する。興味津々のアリシアと苦々しい表情のカシュヴァーンだったが、そこに「翼の祈り」集団が領地に攻め入ったことを知る。旧領主の城を前線に、カシュヴァーンは寝る間も惜しんで戦況を切り開こうとする。

国王暗殺という企みを成功させたゼオルディス王の、さまざまな策略に翻弄されるカシュヴァーンの姿が切ないです。それを支えようとするアリシアの、ピュアな心情もいいですね。

小野上明夜

「死神姫の再婚(10)五つの絆の幕間劇」

B's-LOG文庫

2011.10.3

アリシアとカシュヴァーンの間に設定された、ルアークの誕生日。盛大な誕生会を開催することになったライセン一家は、それぞれ個性溢れる祝いの品を用意する。そこにやってきた、奇妙な誕生祝い。また、ティルナードがセイグラムに隠れて外出をしたり、レネがバルロイから決別する大事件が起きる。

小野上明夜

「死神姫の再婚(9)恋するメイドと愛しの花嫁」

ティルナードとついに婚約することになったメイドのノーラの婚約を祝うべく、アリシアの怪我も良くなり、全員でレイデン地方へ向かう準備をしていた。だが、そこに王家から「怪奇」を主題にした仮装舞踏会への招待状が送られてくる。様々な仮装に身を包み、王宮へと渋々向かうカシュヴァーンたち一行にゼオルディスが連れてきたのは、スタンバール家の令嬢でティルの「婚約者」だった。

ゼオルディスの企みが、いよいよ動き出します。ラストのシーンでの暗殺は、考え抜かれた人物描写でした。打ち下ろされる剣の、風を切る音まで聞こえてきそうです。カシュヴァーンのアリシアへのメロメロぶりや、ほかのエピソードで読後感の悪さを残さないのでほっとします。

小野上明夜

「死神姫の再婚(8)飛べない翼の聖女」

春の訪れを喜ぶ祭りとともにアリシアの誕生日が盛大に祝われる中、ジスカルドの使者からもたらされた報せにより、カシュヴァーンたち一行はラグラドールへ向かうことになった。バルロイやレネの歓迎を受けてカシュヴァーンが様々な探りを入れる裏で、アリシアは初めて目にする海に大興奮する。だが突然の襲撃によりルアークが負傷、アリシアは<翼の祈り>の本拠地へとさらわれてしまう。 そこで、ついに「聖女アーシェル」と対面する。

お互いに密かに作った指輪を贈り合ったカシュヴァーンとアリシアは、一層絆を深めます。<翼の祈り>の本拠地で海に投げ入れられてしまうアリシアが、夫に教えられたわずかに覚えていた海での浮き方や立ち泳ぎが死から救います。かろうじて救出に間に合ったカシュヴァーンに、ほっとします。「聖女アーシェル」の実態が明らかになるのも興味深いです。

小野上明夜

「死神姫の再婚(7)孤高なる悪食大公」

カシュヴァーンはアリシアの誕生日のために、図書館創設を進める。愛妻が大好きな幻の奇書『雨悪』の作者を屋敷に招待しようと計画するが、怪物・ゼオルディスが現れる。アリシアに入れ知恵をしたり、自由気侭な逗留はカシュヴァーンを苛立たせ、そんなある日“悪食大公”ガーゼット侯爵の異彩かつ奇妙な訪れにより、屋敷はさらに波乱に陥る。

ホラー系の怪しい本が好きなアリシアに図書館を贈るため、国中の本を探させるカシュヴァーンには別な目的もあります。さまざまな情報収集をします。本を話題にされると盛り上がってしまうアリシアの、危なっかしさがはらはらさせます。

小野上明夜

「死神姫の再婚(6)鏡の檻に棲む王」

ライセン屋敷は、カシュヴァーンの誕生日に盛り上がる。強公爵の夫の甘い言葉に酔うアリシアだったが、甲胄の使者が訪れて一転する。ライセン夫婦は国王陛下より緊急招集を受けたのだ。めくるめく伏魔殿の王宮にアリシアは興味津々だが、そこにジスカルド侯爵や傭兵バルロイも召集されており、カシュヴァーンたちは激しく牽制し合う。さらには「図書館の幽霊」と呼ばれる“怪物ゼオ”の登場で歯車は狂い始める。

ゼオルディス王子と甲胄の「銀騎士」フロリアンの登場でさらに、物語は複雑に進展していきます。貴族たちの継承権争いに策略をめぐらしていくのがおもしろいです。

小野上明夜

「死神姫の再婚(5)微笑みと赦しの聖者」

アズベルグ地方は豊作祈願祭で賑わい、ライセン一家が興じるなか、レネやジェダたち傭兵団をひきつれたバルロイ・前領主ディネロも合流する。 アリシアを挟んで暴君夫と時計公爵が静かな火花を散らしはじめた矢先、負傷したセイグラムが飛び込んできた。「ティルナードが<翼の祈り>教団に拉致された」。それはユーランの仕業か。男たちが臨戦態勢に入るが、今度はアリシアとディネロが教団メンバーに拉致されてしまう。

基本の貴族たちの争いにはしっかりとした構成が与えられています。登場キャラは単純化されていますが、それぞれが抱える感情をきちんと描いているので楽しめます。嫉妬という感情を抱いたアリシアに、カシュバーンが喜ぶなど夫婦の間の進展は相変わらず遅々としていますが、若干の進展があります。すっかりシリーズ物にハマっています。

小野上明夜

「死神姫の再婚(4)私の可愛い王子様」

成り上がり貴族の集合体・フェイトリン五家の最下位であるロベル家が、招待状とともにもちかけてきた突然の相談とは、アリシアの実家である「フェイトリンのお屋敷」を買い取りたいというものだった。珍しく心配顔になったアリシアときな臭い罠を感じたカシュヴァーンたちは一路、ロベル家へ向かうが、そこではなぜか華やかな舞踏会が開催されていた。しかも会場を仕切るカシュヴァーンの天敵・ジスカルドはアリシアを気に入り、何かとちょっかいをかけてくるし、カシュバーンにはジスカルドの妻である元王女のエルティーナがつきまとう。

アリシアにはちょっぴりはらはらさせ、窮地を救うのはカシュヴァーンという毎回のお約束ですが、いつのまにか読まされてしまう魅力があります。この調子ではシリーズを全部読んでしまいそうです。

小野上明夜

「死神姫の再婚(3)腹ぺこ道化と玩具の兵隊」

「死神姫」アリシアと夫の強公爵・カシュヴァーンの元を訪れた、アリシアの最初の嫁ぎ先バスツール家の現当主・エリクス伯爵が切り出したのは奇妙な願い事だった。その少し前、ふいに屋敷に出現した少女・レネは殺し屋ルアークに似ていたが、「夫婦生活を勉強したい」とぴったりとくっついてくる。来訪者たちに眉をひそめるカシュヴァーンと、さらなる闖入者はルアークの兄という暗殺者だった。

まだあどけない、それでいて観察力の鋭いアリシアのキャラに不思議な魅力があります。休日の気楽な読書に向いています。次第にイラストを無視できるようになり、物語として楽しめるようになりました。政治的な領地や領主たちとの関係はしっかりと構図があり、その中での小さな事件がおもしろいです。

小野上明夜

「死神姫の再婚(2)薔薇園の時計公爵」

強公爵・カシュヴァーンは「俺たちの結婚報告をしにいく」と、「死神姫」と噂されるアリシアを連れて、アズベルグの前領主・ディネロのお屋敷を訪れることになった。久々の外出を旅行気分で無邪気に喜ぶアリシアだったが、そこには複数人の陰謀とカシュヴァーンの企みがあった。

領地をめぐる領主たちの生き方を、意外にしっかりと描いています。夫婦の親密度を増していくスピードはとても遅く、昨今の恋愛のスピード感とは対照的です。このまま半歩づつシリーズを引っ張っていくのだろうと、一気読みしたい誘惑に駆られます。

小野上明夜

「死神姫の再婚」

没落貴族の娘で14歳のアリシアは、後見人の叔父により家名が欲しい金持ちへ嫁がされるが、結婚式の途中新郎が急死してしまい、そのため「死神姫」と呼ばれるようになってしまった。オカルトが好きなアリシアに再婚話が持ち上がった。相手は新興貴族の成り上がり者でとかく噂のある“強公爵”ライセンだった。馬車に揺られて着いた先は、怪しい装飾を施された屋敷と、ライセンの愛人と主張するメイドのノーラだった。

ライセンの冷酷さも、ライセンの愛人の嫌がらせも、気にすることなく切り抜けていきます。はらはらしつつ、終わってみれば周囲の人間を味方に付けるアリシアは、そう言ってよければしたたかな打たれ強い性格かも知れません。薔薇屋敷や貴族たちのお約束の馬鹿っぽさも楽しめます。表紙や挿絵のイラストは、内容に合っていないラノベ系のものです。そのページは周囲の目が気になってしまいましたが、シリーズの続きは読みたいと思わせます。

彩坂美月

「文化祭の夢に、おちる」

3年に一度だけ行われる高校文化祭の、準備中に事故が起きた。5名の生徒が、吊り上げられていた巨大壁画の下敷きになってしまったのだ。目醒めた相原円が見たのは、いつもの通学路にいつもの校舎、見慣れた夏の光景のはずなのに、そこはどこかいびつな、誰もいない世界だった。学校に着くと、文化祭の前日だというのに静まり返っていた。待っていたのは、仲良しコンビの日下部清司と数人だけだった。ここはどこ・・・。

おそらくそういう世界とわかる設定です。けれど、いつもは心の中に隠れているものがそこで見えてしまいます。陸上競技を止めた本当の理由。殺意になるほどの恨み。わずかに学校でかわいがっていた猫の、死んだあとの足跡の謎に救われます。甘い設定ですが読ませます。

彩坂美月

「夏の王国で目覚めない」

父が再婚し、新しい家族になじめない高校生の美咲は、謎のミステリ作家・三島加深のファンサイトで仲間を知ったことは大きな喜びだった。だが〈ジョーカー〉という人物から「架空遊戯」に誘われ、すべてが一変した。役を演じながらミステリツアーに参加し劇中の謎を解けば、加深の未発表作がもらえるツアーに集まったのは7人だった。しかし架空のはずの推理劇で次々と人が消えていく。

指令に振り回され、時間を限られ、初対面の7人が陥る心境がおもしろいです。意外と冷静な人って、実社会でもいますね。列車の密室だけではなく戸外での架空ツアーは、いままでなかったかも知れません。ただ伏線が弱く先が見えがちなのは、これからに期待したいです。伸びる作家だろうと思います。

彩坂美月

「ひぐらしふる」

夏の終わり、恋人との関係に迷いを抱えながら、有馬千夏は祖母の葬儀に出席するために帰省した、。地元の旧友とのとりとめもない会話から、千夏はかつて身の回りで起こった不思議な出来事を知る。誰も居ないさくらんぼ畑からの突き刺さる視線。衆目の面前で、手品のように消されてしまった婚約指輪。山奥の霊場で失踪した親子連れの観光客。山のてっぺんで、UFOに連れ去られた幼馴染。はたして怪現象なのか、事件なのか。そして、千夏の目の前にたびたび現れる「自分そっくりの幻」の正体とは。

凝ったミステリというわけではなく、さりげない会話の伏線で謎が解き明かされていきます。素直さが新鮮です。姓とファースト・ネームの区別がつきにくく、それが読者をミス・リードする要因にするのは、基本設定が弱いからではないでしょうか。それでも充分楽しめます。

彩坂美月

「未成年儀式」

夏休み初日でほとんどの寮生が帰省し、光陵学院の女子寮に残ったのは小説家を志望する渡辺七瀬ほか物好き五人の少女たちだった。そこに突然の大地震が起こった。双子の姉妹が、教師の殺人現場を目撃したと駆け込んでくる。地震の影響で外部との連絡が完全に断たれた「密室」に教師が追いかけて入り込み、さらなる危機が七人を追いつめる。

どこかで読んだような設定とキャラでした。2年前の作品なので、いまなら地震の描写が変わると思います。それでも読み終えさせてしまう、力はあると思います。これからどんな作品を書いていくのか、何作か読んでみたいと思います。

荒木源

「オケ老人」

30代半ばの高校の数学教師・中島は、アマオーケストラ「梅が岡フィル」の演奏会で感激し、ヴァイオリンへの情熱をかき立てられ入団を決意する。ところが練習会場に行くと、平均年齢最高齢の「梅が岡交響楽団」だった。間違いに気付き断ろうとするが、指揮者の野々村や場の雰囲気に流される。さらに同僚の坂下教諭の担任の中に、野々村の孫娘がいた。元々希望していた「梅が岡フィル」の入団も叶えられ、サウナのような防音室を購入し必死に練習を開始する。一方で、日本・ロシアの国家レベルの情報戦が密かに勧められていた。

もとは一つのオケが二つに分裂し、家電量販店のスポンサー付きで実力主義の「梅フィル」と、高齢者が残った「梅響」の演奏レベルの差は歴然としています。だが、新しいメンバーが加わり演奏会を開こうとするまでになります。その中で中島もまた成長していくのです。ユーモラスなシーンとシビアなシーンが、うまく融合しています。スパイ進行には無理がありますが、それも結果として人情味を出すいい材料になりました。楽しめる音楽ストーリーです。それにしても、嫌だと言えずに巻き込まれていくタイプの男性は、歯がゆいですね。

安藤モモ子

「0.5ミリ」

介護ヘルパーとして働き、派遣先の家庭で事件に巻き込まれたサワは、街を離れようとするが、さらにトラブルに遭遇し無一文になってしまう。今日の食事にも困窮したサワは、様々な老人の世話をしながらその家で生活することにした。はじめは警戒、困惑していた老人たちも、やがてサワの存在に癒されていく。サワと老人たちはお互いの出逢いを通し、無味乾燥で単調な人生から生きることへの渇望を取り戻しはじめる。・・・「0.5ミリ」 肥満で動けなくなったアパートの大家さんの救出作戦は、果たして上手くいくのか。・・・「クジラの葬式」

老人介護というのは避けたい物語でしたが、寄り添い同じ息を吸ううちに幼児化する「かわいい」存在と受け止めるサワに、唸りたくなりました。家族からの最後の願いを叶えてやろうとして、火事と自殺現場に居合わせることになる下りは、すさまじいです。その日その日をなんとかかろうじて生きていこうとするサワの、たくましさやしたたかさには驚かされました。すごいかも知れません。
「クジラの葬式」は、少し雰囲気が変わってどこかユーモラスでファンタスティックです。ラストの美しさがいいですね。どちらにも共通するのは、どんな人間をもありのまま受け入れる懐の深さでしょうか。なかなか、書けるようで書けない世界だと思います。

朝倉かすみ

「田村はまだか」

ススキノの片隅の深夜のバーで、小学校のクラス会の三次会が開かれている。四十歳の男女五人が大雪で遅れている友・田村を待つ。田村は貧乏な家庭に育ち、小学生にして、すでに大人のような風格があった。それぞれの脳裏に浮かぶのは、自分の過去に関わり合った人たちのことだ。「それにつけても田村はまだか」酔いつぶれるメンバーが出る中、彼らは呪文のように言い続ける。

タイトルと装丁に引きつけられました。深夜のバーでの酩酊感が、とにかくうまく出ていると思います。それぞれの思い出は格別新しい物ではないのですが、不思議と肌に吸い付くような実感を伴います。人生の約半分が過ぎて感じるそれぞれが、将来のポジションについてのあきらめ、でも子どもの頃への懐かしさがそれを救ってくれる唯一のものと思えたりします。映画のショットを繋げたような描き方も、空気感もなんともいえないおもしろさがあります。

朝倉かすみ

「タイム屋文庫」

仕事と不倫を精算した柊子は、亡くなった祖母ツボミの思い出がたっぷり染み込む家で、思いつきで貸本屋「タイム屋文庫」を始めた。たった一人の客を待つつもりだったのだが、祖母の関わった人のつながりに助けられ、不思議な場所だと話題を集める。レストランのアルバイトと新聞配達で収入を支えながらの貸本屋に、黒猫がときどき現れ、友人が訪れる。

朝倉さんというのは、じつに文章も雰囲気作りもうまい作家ですね。表現が豊かで、読み手も心地よく、「タイム屋文庫」にタイムスリップしているような感覚があります。人と人との絶妙な距離感が、理想的な感じでそこにあります。うらやましくなるほどです。縦糸として少女時代の大切な思い出の人の記憶が、ふと「いま」という現実にするりと入ってきて、さらりと抜け出していきます。緩やかな時間や想いと、地に足をつけるきっちりした暮らしと、緩急自在に時を操っている物語は、おいしいディナーのあとの幸福感を感じさせます。

朝倉かすみ

「静かにしなさい、でないと」

子犬救出劇を同級生に目撃され、ストーカーされる美しい少女。 カード破産しながらも、ゆるやかなロハス生活を実践しつづける二人。

7編の短編集です。鮮やかに暮らしや心理を切り取る筆致は、みごとです。ただわたしは、どうにも好きになれないタイプの人間群像で、正直途中放棄も考えました。 同じ作者でもこんなに作品世界が変わるのかと、驚かされます。次作は慎重に選択したいです。

朝倉かすみ

「ほかに誰がいる」

本城えりが電車の窓越しに、賀集玲子の姿を見初めたのは、高校一年のことだった。天鵞絨(びろうど)のような声にあこがれ、髪型を同じくし眉の形を同じにし、歩き方も同じにした。だが玲子に彼氏ができ大学に進学するが、えりは落ちてしまった。髪を切り落とし、自転車を破壊し、足にハンマーを打ち降ろした。

玲子に憧れ、近づき、ひとつになりたいと願い、自分をどんどんすり減らしていく過程が、ひどく痛いのに悲惨さはありません。賀集という同じ名字の男と知り合い、つきあい始めることの方が悲惨です。同級生のタマイの存在が 救いになっています。淡々とした描写の距離感が、不思議な作家です。読後感は悪くなく、次作を読んでみたいと思わせてくれます。

朝倉かすみ

「深夜零時に鐘が鳴る」

雪降る札幌の街、ひとりで年の瀬を過ごす匂坂展子は、いつもと変わらない新しい年をむかえようとしていた。そんなテンコの前に、元ヘビメタ男「根上くん」、ウェイトレス「そら豆さん」パン屋で働いていたはずの「ミヤコちゃん」が現れる。デパートのカリスマ社員「えぐっちゃん」とは・・・。

元カレやカノジョが微妙なラインに並ぶと、そこには不思議に世界が広がっているという展開です。数作前の「タイム屋文庫」と登場人物もつながり、あの「リス」あるいは「リコ」が思わぬ姿でフォノグラムのように立ち上ってきます。ゆったりとした時間が流れ、ここちよい作品です。

朝倉かすみ

「ロコモーション」

小さな街で、男の目を引くカラダを持て余しつつ大人になった、それでいて地味な性格のアカリは、静かな生活を送りたくて、大きな街に引っ越し美容関係の仕事を見つけた。だが新しくできた屈託のない親友・さくらちゃん、奇妙な客・セレブなティナ、奇妙な男・飛沢との関係が、彼女の心の殻を壊していく・・・。

いい体をしたアカリが格別なキャリアを積み上げることもなく、ただ心地よい場所を漂流してしまうことには、どうしても共感ができません。ただ、朝倉さんの作品にはいろいろな面を見せられて、驚かされます。寒い雪国の空気感が、もの哀しく伝わってきます。次作に期待したいです。

相沢沙呼

「午前零時のサンドリヨン」

須川が、高校入学後に一目惚れした、不思議な雰囲気を持つクラスメイト・酉乃初は、実は凄腕のマジシャンだった。放課後にレストラン・バー『サンドリヨン』でマジックを披露する彼女は、須川たちが学校で巻き込まれた不思議な事件を、抜群のマジックテクニックを駆使して鮮やかに解決する。それなのに、なぜか人間関係には臆病で、心を閉ざしがちな初。

トランプを中心にしたマジックが、心を表すためにうまく使われています。多少類型的なキャラが気になりますが、飛び抜けて才能があるわけでも、優等生でもない群像描写がいいですね。高校生ならではの、些細な言葉で傷つけ合うシーンは、なかなか引きつけるものがあります。読んでいていらいらしてしまう須川のキャラを、もう少しなんとかしてほしいのは、わたしだけでしょうか。でもとにかくおもしろいという最大の魅力があります。

相沢沙呼

「ロートケプシェン、こっちにおいで」

須川が酉乃と心が通じ合ったはずのクリスマスに、連絡先を聞き忘れたまま冬休みに突入してしまった。あの出来事は夢だったのではないかと悶々と過ごす須川に、織田さんからカラオケの誘いが入る。だが、食事の際に、急に泣きながら飛び出していってしまった織田さんにいったい何が起きたのか。須川は酉乃に力を借りるべく彼女のバイト先『サンドリヨン』へと向かう。

バレンタインチョコを巡る謎や、女子たちの間の微妙な「空気」を巧みに捉えています。そこから這い上がろうと必死に足掻くつらさに、胸が痛いです。酉乃のマジックはおもしろいし、そこをもっと読みたいのと切れ味をよくしてほしいです。女子高生たちの人間関係は、いろいろ読んできて自分との違いを強く感じてきているので、ちょっと遠慮しておきたいです。

明野照葉

「フェイク」

二人で子犬を拾ったあと、交通事故で死んだ・・「タミちゃん」。
夢の喫茶店を開店したのに、異様な客が押し寄せる・・「増殖」。
ほかに「ドリーマー」「化粧」「同級生」「えんがちょ」「ひっつきむし」「辻灯籠」の8編の短編集です。どの作品も短篇ならではのキレの良さに加え、背筋がざわついてくる話は、怖いけど読まずにはいられない独特の雰囲気があります。身近に起きたら、怖いでしょうね。

明野照葉

「チャコズガーデン」

東京・吉祥寺にある瀟洒な分譲マンション「チャコズガーデン」。住人たちは裕福で幸せに暮らしているようにみえる。だが、渚はあっさりと夫が出て行き離婚のあとの放心状態になっていた。孤独な渚の近所の部屋に、小学生ケイトと母・映子たちが引っ越してきた。その頃マンション内で奇妙な騒音の苦情が、管理人に集まった。住人総会が開かれ、思いがけない事件が発覚する。

出だしの渚のやる気のない閉塞感と、不気味なタッチで描かれるマンションの謎が、怖さを際立たせておもしろいです。7階のワンフロアすべてを所有している、誰も姿を見たことのない謎の老女の存在も効果を上げています。事件を機にそれぞれに秘密を抱えていた住民たちの、内情がわかっていくことで、渚に変化が生まれます。そこは惜しいことに類型的な域を出ないのですが、謎の老女が興味を持たせてくれます。なかなかいい味です。

明野照葉

「汝の名」

特殊な派遣会社社長の麻生陶子は「完璧な人生」を手に入れるためには、恋も仕事も計算し、自分をマネジメントする女性だった。そんな彼女を崇拝し、奴隷の如く仕える「妹」の久恵と同居しているが、次第に二人の関係が狂い始める。

女性が容姿で判断される「時代」に適合することで生き残っていくという姿勢は、理解はできるが好きにはなれません。ただ、表裏一体で現れる女性の心理と狂気と、逆転していく主従関係がじつに巧みに描かれています。虚栄や孤独につけこむビジネスの存在、悪徳商法を裏で操る悪人、都会の老人の孤独や不安を材料としているのも、おもしろいです。ただそれでも二人が「いい人」でしかないため、鋭さはないのですが、おもしろかったです。

明野照葉

「聖域 調査員・森山環」

大学の後輩でタマ姉と慕ってくる啓太の妻・柚実が「産みたくない」と、突然言い出したという。最近まで、生まれてくる子供との生活を楽しみにしていた啓太と柚実に、何が起きたのか。相談を受けた調査員・森山環は、単なるマタニティ・ブルーではないと直感し隠された過去に気づいく。

結婚したけれどお互いの仕事の都合で、通い婚の環の夫の懐の深さと、形にとらわれない姿勢に惹かれる環の心境がうまく出ています。それが啓太夫婦の理想的な暮らしを、対照的に浮かび上がらせていきます。幼い頃の心の影響が、ここまで深く現れてくるのだという思うと、ちょっと切なくなり過ぎるのですが。パーフェクトな円満な家族でさえ、子どもの心にどんな傷を負わせたかまで知る由もないでしょう。そこを乗り越えるというラストはもちろん、救いがあります。それにしてもうまい作家ですね。2作目ですが、こういう書き手と出会わずにいたことが驚きです。

明野照葉

「ひとごろし」

フリーライターの野本泰史は、なじみの店「琥珀亭」で新顔の弓恵と出会う。はかなげな弓恵に少しづつ惹かれていく。だが、店主夫婦はの態度がなんとなく弓恵に気を遣っていて、弓恵とは関わるなと言う。妹からはときどきメールが来たり、たまに食事に誘う。妹までも弓恵を警戒した。

ずるずると女性に引っ張られていく男性の鈍さに、読んでいていらいらしました。前半は弓恵のミステリアスな過去を探るという進み方でしたが、途中から思い込みや狂気が暴走する展開に、がらりと変わりました。読ませる力があるので、なんとか読み終えましたが、女性の粘着質な執着が後味を悪くさせてしまいます。

明野照葉

「澪つくし」

タクシー運転手の市橋は、カッパ寺から乗り込んだ女性が伝えた住所に向かう。だがそこではないらしい。「大丈夫。走っていれば見つかりますよ」と言い、停車したところが女性の家だった。市橋は、家に上がり麦茶を飲んだ。・・「かっぱタクシー」
夫の急死で酒に溺れていた和美は、元の仕事仲間の堀江からの強引な誘いで仕事に復帰した。最初の仕事がうまくいった祝勝会の3次会で、「三途BAR」で和美は夫の追想に浸る。見守るマスターには、霊がわかるらしい。・・「三途BAR」

8編の短編集です。異世界というのは別個な空間にあるというより、暮らしているそばに陰のように存在しているのではないかと、思わせました。すっと目を向けさえすればそこにある感じです。そういう感触とともに、人間の弱さ、もろさに向けられる視線の穏やかな暖かさがあります。怖い話なのに、どこかほっとさせるうまさに感心しました。

明野照葉

「冷ややかな肌」

10年の商社勤めの末、34歳にして「島流し」の憂き目にあった夏季は、出向先の若き取締役・渡辺真理の手腕に羨望と疑念を抱く。地味な外見、希薄な存在感に反して発揮される冷徹な決断力と異様な行動力。夏季は後輩とともに秘密を探り始めるが、見え隠れする驚きの正体があった。「バッサリ切る」か、「懐柔する」か。

急成長を遂げる外食店で、人が駒のように動かされていく徹底したシステムは、そくそくと怖いです。ただ、警察でもない素人探偵の設定ではどうしても推論の域を出ないのはやむを得ないのですが、もう少し実態を読みたかったです。

朱野帰子

「駅物語」

「大事なことを三つ言っとく。緊急時は非常停止ボタン。間に合わなければ走れ。線路に落ちたら退避スペースに入れ」 酔っ払う乗客、鉄道マニアの同期、全自動化を目論む副駅長に、圧倒的な個性をもつ先輩たち。毎日100万人以上が乗降する東京駅に配属された若菜は、定時発車の奇跡を目の当たりにし、鉄道員の職務に圧倒される。弟の夢を叶えるつもりで仕事に着いたが、路線や運賃計算が完璧に頭に入った有能な改札係員や、人身事故、最新の劇的に変化・進化し続ける巨大な東京駅に、悩み、傷つき、それでも逃げ出さずに進む若菜たち、スタッフの物語です。

東京駅を通勤経路にしていたわたしに取っても、ここまで厳しい仕事とは知りませんでした。通勤客が心を閉ざし貨物化して押し込められる車内で、ときどき起きるトラブルはやむを得ないし、でもアクシデントが発生した時の暖かい周囲の対応もまたあります。駅員や上司の人間関係など、いままで知らない世界をしっかりと取材して書いています。それらとたくさんの登場人物を物語として、展開し、収斂させた作者がすごいです。前作からまた大きく、情に流されず骨太に棒高飛びを成功させたと思います。自作がまた楽しみな作家です。

朱野帰子

「真実への盗聴」

結婚して間もない七川小春は、勤めていたブラック企業をようやく退職した。新たな就職先を探すが、数百件の応募も落ちてしまう。小春は寿命遺伝子治療薬「メトセラ」を開発しているアスガルズ社の採用試験にようやく仮採用される。面接官の黒崎は、19年前、小春の遺伝子治療を担当した男だった。小春の聴覚の発達を知る黒崎は、「メトセラ」の販売を阻もうとする子会社に、小春をスパイとして派遣するが、そこで孤高の天才の千紗と同僚として心を開ける関係になった。少子高齢化が進み年金負担が激増するなか、苦しい生活を共にする夫、過干渉の母、90歳を超えた祖母、家族とのしがらみもある。

いびつの極にあるワーキングプア、若年層の就職難と年金の徴収、受給年齢まで仕事を手放さない高齢者たちという、厚い壁に阻まれる背景があります。遺伝子治療、長寿薬の開発、秘密結社に体当たりで立ち向かう小春は、社会のちっぽけな存在に過ぎません。その中で、自分の信じるものを貫くことがいかに大変なことでしょう。就職や年金、寿命など多少デフォルメした背景や荒い文章ですが、ある意味では近未来の姿にも見えます。一気読みしてしまいました。

朱野帰子

「海に降る」

海洋研究開発機構に勤務し、女性として初めて有人潜水調査船「しんかい六五◯◯」のパイロットを目指す深雪は、建造に携わった父への不信から閉所恐怖症を発症し、船に乗ることができなくなってしまう。そんな時、広報部に新人・高峰がくる。深海生物学者の亡父が、18年前に日本海溝で目撃したという未確認深海生物「白い糸」を自ら発見したいと、高峰は言う。共通の想いを持つ二人は、次第に接近し、ついに「しんかい六五◯◯」で深海に潜る日がやってくる。待っていたのは、誰もが予想していなかった事態だった。

海溝に潜る「しんかい六五◯◯」に乗る夢をかなえようとする深雪が、健闘を見せます。海洋生物がまるで目の前にいるように思えました。美しいです。わたしには可能性はありませんが、映画の大スクリーンで見てみたいと思わせる、幻想的で壮大な日本近海の海溝です。文章も奇をてらわずに、素直に表現していています。潜水機の装備点検などの仕事を、かいま見ることができました。閉所恐怖症との付き合い方も、深海に潜りたい理由を、自身に問いつめていく過程がうまく描かれていると思います。

有川浩

「空の中」

謎の航空機事故が相次ぎ、国産機開発の担当者・高巳と生き残ったパイロット・光稀は調査のために2万mの高空へ飛んだ。2つの事故に共通するその空域で彼らが見つけたものは、想像を絶するものだった。白いそれは「白鯨」と呼ばれ、人間たちは共存の路を探る。事故で死んだ父を思う瞬は、宮じいと幼なじみの佳江に見守られながら海で遊んでいる。瞬が海辺で不思議な生物を拾った。言葉を覚える不思議な生物だった。

キャラがなによりもしっかり立っていて、構成力もみごとです。巨大生物と、瞬の拾った生物との紆余曲折と結末も納得のいくものでした。読んでいておもしろい、そこが作者の筆力でしょう。空にこういう生物がいたらいいなと、淡い願いを持ってしまうほどです。夢の中、空の中、そして亡くなった肉親がいる空の向こう。見上げると、雲ひとつない冬晴れの空の青に、想像力をかき立てられました。

有川浩

「塩の街」

宇宙から飛来した謎の巨大結晶物体が、世界中に落ちたその時から、生きている人間が塩の塊に変化し、原因や因果関係が不明な「塩害」として続いていく。女子高生・真奈は親を失い家を失った。空自の戦闘機乗りだった秋庭に救われ、過ごしている。だが秋庭は、自衛隊立川駐屯地司令官・入江により否応なく、破壊活動に巻き込まれていく。

塩の結晶の不明さ。人間の塩化。とんでもなく白く怖い設定に、引き込まれました。もろい塩になるという、人間の危うさが端的に描かれています。後半の恋愛感情のストーリーはラノベらしさ満載です。入江のキャラがワルだけれど、自分の信念と策略の自信が生むパワーは、納得させてくれます。

有川浩

「シアター!」

小劇団「シアターフラッグ」はわかりやすいストーリーでファンも多いが、負債額が300万円になり解散の危機が迫っていた。悩んだ主宰の春川巧は兄の司に泣きつく。司は巧にお金を貸す代わりに「2年間で劇団の収益から返せ。できない場合は劇団を潰せ」と厳しい条件を出した。プロ声優・羽田千歳が加わり激減した劇団員は10名になった。そして鉄血宰相・春川司は「経営」を初める。

甘ちゃんの集まりの劇団を、 会社経営のやり方で一気に立て直していくのは、なかなか楽しく読ませます。庇ってばかりの弟の成長へのやさしい視線がいいです。ただ後半は、劇団をどうしたいのか、人間関係も薄く、ハプニングですっ飛ばしてしまったのは竜頭蛇尾でしょう。せっかくの決め台詞「人間が何かを諦めるのに必要な条件とは、全力でやって折れること」が泣きます。

有川浩

「ヒア・カムズ・ザ・サン」

出版社で編集の仕事をしている真也は、幼い頃から、品物や場所に残された人間の記憶が見えた。 たいして役に立つ能力ではなく、できるだけ人には隠していた。真也は会社の同僚のカオルとともに、アメリカから20年ぶりに帰国したカオルの父・白石を迎えに成田空港へ行く。白石はハリウッドで映画の仕事をしていると言うが、真也の目には全く違う景色が見えた。

真也、カオル、白石、榊、輝子と、視点が都合よく移動して、類型的なストーリーを繋げたような印象です。学生時代から脚本家という同じ夢を見て来た白石と、榊。そして白石の恋人・輝子の物語としては、目新しさはないのです。真也の能力も格別に活きているわけではなく、ちょっと肩すかしをくらった感じと言っては酷でしょうか。多作で人気のある作家なので、ムラはあるでしょう。これはハズレでした。

有川浩

「レインツリーの国」

忘れられない本から始まったメールの交換だった。伸は次第に、ひとみに会いたいと思うようになる。だが現実にはいくつものぶつかり合いがあった。

なぜか15年ほど前のメール交換を思い出しました。いまはここまで古風な女性はいないかも知れません。聴覚障害の問題も、うまく処理しています。でもなんだか心に残るものがないのでした。

伊与原新

「ルカの方舟」

火星からの隕石に、生命の痕跡が発見された。南米の最南端のパタゴニア北氷床で採取した隕石だった。35億年前の地層だという。帝都工科大学の研究室の笠見教授が発表し、アメリカの学術雑誌の表紙を飾った。取材をする科学誌ライターの小日向のもとに、当該論文の偽装を告発するメールが届く。翌日研究室を訪ねた小日向は、死亡している教授を発見する。実験室には、方舟の形をした黒い物体が残されていた。物体を鑑定した科学警察研究所の女性研究者・佐相は、それが火星隕石であったことを証明する。真相の究明は、惑星科学者・百地に託された。天才惑星科学者が人類史を変える謎を解き明かす。

地球の生命誕生に、火星からの隕石落下が関わっていたという壮大なテーマに引きつけられます。その奇跡の発見にまつわる告発メールが、ごく限られた人間に送られます。大学の教授の席を目指す院生たちの、博士号を取るために必死になる人間の狭い世界や論文出版の裏事情が見えてきます。発見の真実はどこにあるのか。おもしろく一気読みしました。デビュー作のあとパッとしなかった伊予原さん。やはりいいものを書けるじゃないですか。大きく成長した作者にこれからも注目していきたいです。

伊予原新

「プチ・プロフェスール」

恋愛音痴の女子大学院生・律は、留学を前に資金の調達に悩んでいる。そんな律に思いがけない高額報酬の家庭教師の仕事が紹介され飛びついた。小学生・理緒は、律を教授と慕い理系女子に憧れ、物理や化学、科学、宇宙の不思議に目を輝かす。「投げ出し墓のパンディット」「恋するマクスウェル」「チェシャ猫マーダーケース」「虹のソノリティ」「四◯二号室のプロフェスール」

ちょっとしたミステリ部分に、雑学ネタを散りばめた理系会話がいままでにないおもしろさでした。科学的な話題から事件の謎を解き明かしていきます。小さい頃の「リケジョ」=理系女子の悩みに共感し、自分は冷たい人間だと悩んだ昔を思い出してしまいました。律の怪しい友人や、理緒のお抱え運転手も加わり、楽しめます。最終章の、律の父が残した手紙からたどり着く結末は多少出来過ぎ感はありますが、理系の思考の底にある感性が美しいです。留学から帰国した律と理緒のその後を、シリーズ化して続きが読みたいと思います。

伊予原新

「お台場アイランドベイビー」

東京を壊滅寸前まで追いやった大震災から4年後、息子を喪った刑事くずれのヤクザ巽丑寅は、不思議な魅力を持った少年・丈太と出会う。彼の背後に浮かび上がるいくつもの謎が見えてくる。消えていく子供たち、埋蔵金伝説、姿なきアナーキスト、不気味に姿を変えつつあるこの街。すべての鍵は封鎖された「島」・お台場に通じていた。

近未来の東京に起こった地震後の世界という、時期的には震災前に描かれた先見の明があり過ぎだった作品です。物理的にあるいは群集心理的にありえそうな、実に現実のほんの少し先に存在しそうな世界です。ただキャラがすでに読んだことのあるような類型的な人物像なのが、残念です。意欲的ですが、あれもこれも詰め込み過ぎて、構築し切れていない印象です。

乾くるみ

「スリープ」

TV番組の中学生レポーターとして活躍中の羽鳥亜里沙(アリサ)が、カメラマンたちと一緒に、筑波の「未来科学研究所」を訪問した。所長の誘導で高解像度スキャナーに入ると、視界が真っ白になった。目覚めたアリサが見たのは、30年後の世界だった。当時同級生だった戸松所長の説明で、凍眠状態にされていたことを知る。蘇生も凍眠も極秘事項だったため、二人は研究所から逃走し静かな暮らしを始める。アリサが知った30年後の日本は、道州制を導入していたり、大きな地震が起こったりしていた。「もしあのときスキャナーに入らなかったら」、どんな30年を過ごしていたのかと悲嘆に暮れる。

凍眠技術は進歩しているとはいいながら、細胞・分子レベルでの再生は難しいのでしょうね。アリサの見る30年後の日本は、想像しうる近未来の雰囲気です。ディテールが大変面白いです。いくつもの複雑な謎が、一瞬で交差し解明される驚きは心地がいいです。最後の最後が悲哀に満ちたシーンが印象的です。この作家も男性と聞いて納得です。

乾くるみ

「カラット探偵事務所の事件簿(1)」

高校の同級生・古谷が謎解き専門の探偵事務所を開くことになった。井上は、その誘いを受け新聞記者から転職して仕事を手伝うことにした。作家とファンのメールのやりとりの中から、隠された真実を明らかにしていく・・「卵消失事件」。
屋敷に打ち込まれた矢の謎を解く・・「三本の矢」。

6編の短編集です。ベタな推理と展開は、暑い夏の午後にうとうとしながら読める軽さが、合うかも知れません。乾さん。おもしろかったのは「スリープ」だけですね。あとはどうもわたしには、合いません。

乾くるみ

「イニシエーション・ラブ」

大学四年の「たっくん」は、代打出場の合コンで惹かれて出会った「マユ」とつき合うようになり、夏休み、クリスマス、学生時代最後の年をともに過ごした。「たっくん」は地元静岡の会社に就職したが、急に東京勤務を命じられた。週末だけの長距離恋愛になってしまい、いつしかふたりに隙間が生じていく。

作者はいつの時代を設定したのか、という疑問から始まりました。電話への奇妙な怖じ気や、見え見えのN局のアナウンサー的な青年と、少女趣味的なキャラとの出会いも、どんな意味があるのかと思うほど作り物めいた雰囲気です。それらがブレてくるのも気持ちが悪く、投げ出してしまおうかとも思いました。東京での仕事が絡んでようやく空気が変わったという時点での、キャラの崩壊かという変貌に、何か仕掛けがありそうと気付きました。うまく頭の中で時系列の整理ができなかったまま、ラスト・シーンでやっぱりという終わり方でした。各章のタイトルの曲名やドラマの時系列もわからないままでしたが、その時代を感じ取れない読者はおいてけぼりの印象です。他の作品を読んでみようと思います。

乾ルカ

「ミツハの一族」

大正12年、黒々とした烏目を持つ、北海道帝国大学医学部に通う八尾清次郎に報せが届く。烏目役の従兄が死んだと。墓参りのため村に赴き、初めて水守の屋敷を訪ねた清次郎は、そこで美しい少女と出会う。未練を残して死んだ者は鬼となり、井戸の水を赤く濁す。そのままでは水源は涸れ、村は滅んでしまう。鬼となった者の未練を解消し、常世に送れるのは“ミツハの一族”と呼ばれる不思議な一族の「烏目役」と「水守」だった。過酷な運命を背負わされた「烏目役」清次郎と水守と、一族の姿が明らかになる。

明かりの元で物が見える「烏目役」と、暗闇の中で見える「水守」の目を想像してみました。そこには引き込まれるような強力な魅力さえ感じます。医学的に解明しようとする気持ちと、守り続けられる因習と血筋との淡いに立つ清次郎の葛藤が、興味深いです。「水守」に光を与えようとし、文字を教えハーモニカを与えます。そこに生まれた感情が悲劇を引き起こします。不思議な世界に引き込まれて読みました。こういう物語も書けるのですね。次作がまた楽しみです。

乾ルカ

「奇縁七景」

親から、偏食を治すためのプログラムに参加させられた3人の中学生が、有機農家で農作業を手伝う。食事には虫が入っていた・・・「虫が好かない」
孫可愛さに溺れた女性が行きついた先は・・・「目に入れても」
世界的権威を持つ占い師の、TV番組インタビューに否定的コメントをした男の人生が転落していく・・・「報いの一矢」
ホテルのアルバイトスタッフが、正社員登用を拒否するのはなぜか・・・「夜の鶴」
血統書付きの美犬を散歩させ、ペットショップから手厚いケアを受けている隣家に、疑問が・・・「只より高いもの」
初恋の男女が結婚し幸せな人生を歩いてきた夫婦。妻はしばしば鏡を覗き込む癖があった・・・「黒い瞳の内」
葬儀に訪れる人々と最後の言葉を交わす故人の魂・・・「岡目八目」

七つの奇想溢れる短編集です。1・2・3作は少し後味が悪いホラー系です。「夜の鶴」からは心の深くに沈めていた思いを、解き明かしていくいいお話です。ラストでふわりとほぼ収斂される構成はうまいです。

乾ルカ

「森に願いを」

登校拒否の息子を持つ母親、自分に合った仕事が得られず世間に不満を抱く女、成績が揮わず都会の進学校で居場所を失った学生、リストラされた中年男など。希望を失い、森に迷い込んだ人々に森番の青年は語りかける。「ここはとても気持ちのよい森なんです。どうか歩いてみてくださいませんか?」そして最後に明かされる、森と森番に秘められた物語。

他人事としてみるとよくある問題も、当事者は死を考えるほどの深刻な悩みです。けれど責めずに受け入れてくれる、話を聞いてくれる、言わなくても察してくれる希有な存在の森番です。ふんわりいい話なだけではありません。問題を鋭く描き出す作者の、視点のぶれない方向性がすごいです。こんな森があったら、わたしも一日風を受けて座っていたいです。

乾ルカ

「モノクローム」

母子家庭の流棋士の子として生まれ、幼いときに母に捨てられ孤児院で育った少年・慶吾。孤独の中で囲碁に打ち込む慶吾の姿を、写真部の香田のカメラがいつも捕らえていた。香田の屈託ない態度のおかげで徐々に心を開いた慶吾は、それまで避けて通ってきた母の家出の理由を探そうとする。

「僕を捨てた理由。僕の、これからの生きる道。答えは全部、碁盤の上にある」思い込んで、囲碁に夢中になっていくのは、わからないではありません。ただ当時の母の対戦相手や周囲の人を捜して話を聞くのは、補足以上の行動になります。作者に、盤上で全てを知るほどの力がなかったかと残念です。

乾ルカ

「ばくりや」

ご不要になったあなたの能力お取り替えします。北の街の路地裏に、その店はあった。ハンサムでもないのに異常に女にもてる、就職した会社が必ずつぶれる男、雨男、泣き男、間の悪い女など・・・。古い自分を脱ぎ捨てるため「ばくりや」を訪れた者たちの運命は、どう変わるのか。

怪しい雰囲気の「ばくりや」は、白衣の特徴のない男と黒猫がおもしろいキャラです。印象に残るのは、就職した会社が必ずつぶれる男が、自治体すら財政再建団体に指定されされてしまいます。苦笑というか、笑うしかない状況が一転し、動物に好かれる力を得、動物園で働く結末は、実にブラックです。他の章も交換した力が他の誰かが捨てたかったものなのですから。わずかに、間の悪い女が「ばくりや」の休業日で戻っていき、それが見方を変えると幸運の持ち主だったのが救いです。ラストの最高のブラックが、乾さんらしい切り方です。

乾ルカ

「たったひとり」

廃墟探索サークルの男女5人は半壊したラブホテルに入ったが、突然27年前のホテルにタイムスリップした。幾度脱出しようとしても、また戻るタイムループに陥る。古いタイムレコーダーの時刻の仕組みに気付き、一人残りあとは脱出する試みを、順番に繰り返す。極限状況で剥きだしになるエゴ、渦巻く愛憎が入り交じる中、悪夢を脱することはできるのか。

タイムループで次第に過去の時間が短くなる設定が、うまく切迫感を出していると思います。表に見える性格と裏の感情を一人一人が持っていて、ループを終わらせる自分が考えうる最良の方法を試してみるのも当然でしょう。ただ人間の造形がいまひとつ明確にならないため、ラストがすとんと胸に落ちませんでした。たぶんいままでの作者の別な面への、少しばかりの戸惑いがあったことも影響したかも知れません。

乾ルカ

「願いながら、祈りながら」

北の片隅に、ぽつんとたたずむ中学校分校には、一年生4人と三年生1人が学んでいた。たった5人でも、自称霊感少女もいれば、嘘つきな少年もいる。そこに赴任してきたのは、まったくやる気のない若い教師の林だった。けれど、やがて林は少年の嘘の痛ましい理由を知る。

よくある分校の中学生と本校との壁、自分を認めてほしい少女、嘘つきで場を救う少年のエピソードが、あまりにもよくあるふんわりとやさしいいいストーリーです。作者名を伏せて読むなら、新人作家のファンタジィという印象です。捻りも毒もないお話でした。乾さんがこの路線を進むなら、もう読まないかもしれないですね。軌道修正を願っています。

乾ルカ

「メグル」

「あなたはこれよ。断らないでね」足を引きずる無表情の大学学生部の女性職員・ユウキさんから半ば強要され、仕方がなく足を運んだ大学生たちは、そのアルバイトに秘められたものに驚かされた。
父親が入院する病院の売店で棚卸しをする女子大生が冷凍庫から見つけたのは・・・「モドル」
不在中の飼い犬に「生肉」を与えるだけの高額アルバイトとは・・・「アタエル」
学生が暮らす家を、自分の家だと言いはる奇妙な女性の庭仕事を手伝うことになる・・・「メグル」

5編の短編集です。日常から一歩踏み出した奇妙なアルバイトの、一話ごとの味わいがなかなかうまいです。人間の惨さと、悲しみと、理不尽さ、そのすべてを受け入れるしかないと作者は感じているようです。ラストでユウキさんとは何ものなのかがわかり、切ない心情が伝わってきます。おもしろく印象的です。他の作品も読んでみたいと思います。

乾ルカ

「四龍海城」

健太郎の家の近くの海に、ずっと前から地図にもインターネットにも載っていない、謎の塔か城のようなものが建っている。夏休みのある日、吃音矯正スクールに行くのが嫌で海岸にいた健太郎は、視力がいいので見つけた干潟の光るものを拾うが、潮が満ちて逃げ場を失い不気味な城に入ってしまう。そこには閉じ込められた十数人の大人たち、感情がなくなった人々が働く「電力会社」と生活空間、そして暗い目をした少年、貴希がいた。健太郎と貴希は次第に心を通わせ、塔を出るための「出城料」を共に探し始める。

乾さんの新しい切り口の作品です。視力がよく壊れたものの修理が得意な健太郎と、初めて心を開た貴希との友情が懐かしささえ感じさせるピュアなものでした。一日4回流れる「社歌」の謎、聴力が優れた貴希の苦しさが強く伝わってきます。トランペットを吹く新入りの大学生との関わりが明るい展開を見せます。朝日や夕日の美しさ、トランペットの音色が聞こえるような描写がすばらしいです。「出城料」は途中で想像がつきますが、ラストはせつないです。

乾ルカ

「六月の輝き」

同じ誕生日、隣同士の家に生まれた幼なじみの美奈子と美耶。互いに「特別」な存在だった。11歳の夏、美耶のある特殊な能力がふたりの関係に深い影を落とす。怪我や病気を元に戻す能力だった。そんな二人の母は、それぞれに複雑な思いを持っていた。

美奈子と、その母、美耶の母、飲んだくれの父親の知人、同級生の女の子、筋ジス患者の語りで紡がれる物語は、なんという悲しさでしょうか。透き通るように白くはかない美耶の美しさ。弱い自分を憎むことで生き抜こうとする地に足の着いた美奈子。お互いを求めながら、素直に進まない人生の重さがずっしりと胸に響きます。時は無情に過ぎ去って行き、止めようとした時はすでに遅いのです。筋ジス患者のノートに記された恨みや憎しみと、死の寸前に救われる言葉が心に残ります。美奈子の母の病室の窓から見える、いっときの桜のあまりにも美しく、はかない残像。そして美奈子の母の望みが最後に叶います。乾さんのこういう傾向の作品は初めてですが、いいですね。お勧めです。

乾ルカ

「11月のジュリエット」

高校2年の優香は修学旅行で乗った飛行機で、謎のガスを吸った乗客が大量死し地獄と化した。生き残ったのはわずか5人。姿を見せた4人の美青年たちは「NJ」という研究のデータを奪うため、秘密に触れた優香たちをも葬り去ろうとする。だが未来から来たという4人にも、はかない花を抱きしめるどこか不安定な気配がある。高校生2人とニートの陣内、中年男性・白山、研究者のイグチは、必死に生き延びようとする。

飛行機の密室パニックが、未来の美しい世界での悲劇を防ぐために、過去を変えるべく現れたSFとうまくつながっています。強靭でいながらもろさを持つ未来人。多数のために少数の犠牲は必要という言葉に、優香は反発します。強く印象に残る作品です。映画化してもおもしろいでしょう。

乾ルカ

「プロメテウスの涙」

精神科医・凉子の元に、小学生のあや香は、やつれた母親に伴われて現れた。人格が変わったように手足を動かすことが、次第に多くなったという。とりあえず薬を処方して次回に持ち越した。凉子はメンタルクリニックを開業している親友の祐美に、相談を持ちかける。祐美からはワシントンの大学で研修を受けていて、医療刑務所で刑を執行しても自殺をしても死なない囚人がいるという話と、あや香と似た症状の患者も来ているというのだ。

医師の怜悧な思考が徹底して突き詰めていく理論展開には、妙に説得力があります。凉子と祐美の関わり方も好感度が高いです。死なない人間という事柄だけでも、なかなかのインパクトですが、そこに小学生との接点を作るというのも、確信犯としての作家の力を感じます。おもしろい作家ですね。

乾ルカ

「夏光」

小学生の哲彦が疎開先の漁村で出会った喬史は、顔の左半分に真っ黒な痣があり、村人たちはそれをスナメリの祟りと忌み嫌っていた。だが喬史の左目にはもっと恐ろしい秘密があった。死を見ることができる少年を描く「夏光」。飛ぶマジックを見せる少年「Out Of This World」。相手の感情を匂いで知る少女の世界「風、檸檬、冬の終わり」。

5編の短編集で、作者のデビュー作です。時代の空気感や狭い村や町の閉塞感が、独特な雰囲気で描かれますが、登場人物がその中でもいまいる場所を離れたくないと思っています。残虐で絶望的な場所なのに、小さな明かりを消したくなくて、自分の中で精神的な厚い壁を立てているようです。乾さんは、この書き方がデビュー作であれば、ホラーの道に進ませようと編集者は考えたでしょう。でも他の作品を見ると、この作品は通過点だったのだろうと納得できます。それにしても、乾さんはタダものではありません。

乾ルカ

「あの日にかえりたい」

介護士の卵でボランティアにきた「わたし」は、施設で会った80歳の老人が語る嘘のような失敗続きの半生記にただ聞き入る・・「あの日にかえりたい」
いじめられっ子の家出少年と動物園の飼育員のひと夏の交流・・「真夜中の動物園」
地震に遭った少年が翌日体験した夢のような一日・・「翔る少年」
高校時代の仲間と15年ぶりの思わぬ再会を描く・・「へび玉」
落ち目のプロスキーヤーが人生最期の瞬間に見た幻・・「did not finish」
ハクモクレンの花の下で出会った老女の謎・・「夜、あるく」


6篇の短編集です。時空を超えた小さな奇跡を、そっとなぞりながら見せる明るい光があります。乾さんの、また新しい一面が見られました。どんな作家に成長していくのか、楽しみです。

乾ルカ

「蜜姫村」

昆虫学者の山上は、変種のアリを追って山で迷い村の人々に助けられ、命をとりとめた。翌年、山上は医師の妻の和子と一年間のフィールドワークのために、瀧埜上村の仮巣地区を訪れた。優しくて、親切な村の人々。だが、何日かその村で生活していくうちに、和子は違和感を覚える。医師もいないのにみんな健康的過ぎるのだ。そして村人以外は決して立ち入ってはならない社を、探検に行った夫が戻って来なかった・・・。

異世界を、乾さんが書くととてもリアリティがあります。不思議な力を持つ血が脈々と生きる世界が、ありそうな気がしてきます。ラストが走り過ぎたのは、量を押さえたのか、広げられなかったのかは微妙なところです。でも、とにかくおもしろいです。これからどんな分野を書いていくのか、追いかけていきたいです。

乾ルカ

「てふてふ荘へようこそ」

高台に佇むおんぼろアパート「てふてふ荘」は、敷金礼金なし、家賃は月一万三千円、最初の一ヶ月は家賃なし。破格の条件に引かれて、就職浪人の青年が訪れる。心地よい大家の声に誘われ、3枚の顔写真から選んだ一号室に案内される。朝目覚めると、女性の幽霊がいた。成仏できずにいるのだという。青年は出て行こうとしたが、大家や他の住人に引き止められ、仕方がなくルームシェアのつもりで住むことにした。・・「一号室」

一号室から六号室までの幽霊には、それそれに死んだ事情があり、部屋の住人にも生きていく悩みがあります。ふと目にした新聞記事や、幽霊と話をするようになった住人が人生を振り返ることで、思いがけない展開があります。六室六章の中で、大学生が入院のため部屋を出て退院し戻った四号室の話と、幽霊がまったく見えない女性の五号室の話がおもしろかったです。単なる優しい話で終わらない、乾さんらしいひねりがうまいと思います。各住人たちの人生はかなりイタいのですが。

伊藤計劃

「虐殺器官」

9・11以降激化が加速する“テロとの戦い”は、サラエボが核爆弾で消滅した日を境に、転機を迎えていた。先進諸国は徹底的な管理体制に移行してテロを一掃したが、後進諸国では内戦や大規模虐殺が急激に増加していた。米軍大尉クラヴィス・シェパードは、その混乱の陰に常に存在が囁かれる謎の男、ジョン・ポールを追ってチェコへと向かった。彼の目的とは、大量殺戮を引き起こす“虐殺の器官”とはいったいなにか・・・。

テロを一掃した先進国と、内乱の虐殺が急増した後進国という近未来が舞台ですが、現代の延長線上にあるリアリティを強く意識させます。人造筋肉や痛覚神経の遮断を施した兵士が、殺戮に対する負うべきものを見つけていく展開に、驚かされました。死と真っ向から対峙し、任務を果たしながら、なお人間の本質を見極めようとする姿勢がすごいです。 思考の強靭さが、文章の硬質さになり、やわな日本人には書けない強烈な思考も、細部も、みごとです。SFはあまり読まないのですが、この作品は高いレベルで心を揺り動かさずにおかないものでした。

伊藤計劃

「ハーモニー」

21世紀後半「大災禍」と呼ばれる世界的な混乱を経て、人類は医療経済を核にした福祉厚生社会を実現していた。誰もが互いのことを気遣い、親密に“しなければならない”ユートピア。WatchMeという健康管理ソフトが全世界の8割の人間にインストールされ、老衰と外部からの物理的破壊によってしか、死ぬことのない世界を作り上げた。だが自殺する自由と意志が抑圧された、ディストピアなのか。世界保健機構の生命監察機関に勤める霧慧トァンは、わずかに手に入る酒とタバコを飲める戦場に立っていた。トァンは、少女時代に幼なじみ二人と共に自殺未遂を起こした過去がある。理想的な医療社会に襲いかかった未曾有の危機に、死んだはずの友人ミァハの影を見る。

「虐殺器官」に続く、SFでしか書けない世界です。意識を研ぎ澄ませた作者がたどり着いた、「意識はなくてもいいのではないか」という点には必ずしも共感はできませんが、すべての生活を保障された社会では、ただの個人の欲望であり、次の段階の世界に進むには邪魔な存在として描かれています。とにかく作者のもつ明確な強い意志と構成力、論理の組み立て、文章力の力強さに驚かされます。読後の哀しみの感情は、胸に痛いです。次作でどのように展開しようとしたのかは想像するしかない、夭逝が惜しまれます。

伊藤計劃

「メタルギア ソリッド ガンズ オブ ザ パトリオット」

暗号名ソリッド・スネークは、悪魔の核兵器「メタルギア」を幾度となく破壊し、世界を破滅から救ってきた。その伝説のスネークの肉体は、急速な老化に蝕まれていた。利潤追求の経済行為となった「全世界的な戦争状況」を終わらせるため、そして同じくクローンとして生み出された宿命の兄弟リキッド・スネークを葬るため、さらには自らの呪われた血を断つために中東、南米、東欧の戦場に赴く。

スネークと共に最も長く戦争を生き抜いてきた、語り部のオタコンをうまく設定したと思います。単なる殺しのゲームではないけれど、あまりにも悲惨で不毛な戦争シーンは目を背けたくなりました。「戦争経済」という言葉は、ふと現実に立ち返らせてくれます。自分たちから遠く離れた場所で、自分たちが得をするように破壊が起きることが理想的というのは、現実社会をそっくり映し出してみせます。そして戦士の一人一人の姿が、人間以上に人間的思考で苦しんでいました。おそらく作者のメッセージを、読者はしっかりと受け止めることになるでしょう。夭逝が惜しまれます。

伊藤計劃×円城塔

「屍者の帝国」

19世紀末、霊素の存在が発見され、死者にネクロウェアと呼ばれるソフトをインストールした「屍者」たちは、労働用から軍事用まで幅広く活用されていた。その技術は全欧に拡散し、「屍者軍」対「人間軍」は、新たな「屍者」を作り出してしまう。英国諜報員ジョン・ワトソンは密命を受け軍医としてボンベイに渡り、アフガニスタン奥地の「屍者の王国」へ向かう。

伊藤計劃の未完の絶筆(冒頭30ページ)が、盟友・円城塔に引き継がれて、新しいSFとして発刊されたものです。「屍者」が世界各地で使役されている光景は、異様でありながら合理的でシステム化されたものにも思えます。人間というのは、地球を滅亡の危機さえもたらすほど、使える物をすべて取り込み利用していく存在なのだと、改めて思い知らされました。ストーリーの流れやラストの展開は、SFならではのおもしろさがあります。 ただ伊藤計劃ではなく、円城塔の作品だとどうしても感じてしまいました。人間のアイデンティティとは何か、意識を研ぎ澄ませた明確な強い意志と構成力、論理の組み立て、文章、胸に痛い読後の哀しみの感情はありません。やはり伊藤計劃は亡くなってしまったのです。

逸木裕

「虹を待つ彼女」

2020年。人工知能と恋愛ができる人気アプリに携わる有能な研究者の工藤は、予想できてしまう自らの限界に虚しさを覚えていた。そんな折、死者を人工知能化するプロジェクトに参加する。試作品のモデルに選ばれたのは、カルト的な人気を持つ美貌のゲームクリエイター、水科晴。6年前、自作の「ゾンビを撃ち殺す」オンラインゲームとドローンを連携させて渋谷を混乱に陥れ、自らを射撃の標的にして自殺を遂げていた。晴を調べるうち、彼女の人格に共鳴し次第に惹かれていき、やがて彼女に「雨」と呼ばれる恋人がいたことを突き止める。だが「調査を止めなければ殺す」という脅迫を受ける。晴の遺した未発表のゲームの中に彼女へと迫るヒントを見つけ、人工知能は完成に近づいていくが。

初作家でした。感情さえコントロールしている工藤の存在に、妙な共有感を持ってしまいました。論理的に展開していくストーリーに引き込まれます。囲碁の人間対人工知能を巡るメディアとの関係。人工知能と対話する中で離婚を勧められたとクレームが入り、会社での上部の思惑や人間関係。対人間より、死者の友人たちに聞く、晴の像作りに夢中になっていく過程もおもしろいです。未知の領域を知りたいというあくなき研究者の思いの高さと、「恋愛感情」にのめり込み過ぎる点が性格が変わってしまったような印象を受けます。少し俗的表現に終わった部分を崩したのが残念な気がします。他の作品も読んでみたいです。

岩木一麻

「がん消滅の罠 完全寛解の謎」

余命半年と宣告された患者の病巣が、生前給付金を受け取った直後に治ってしまう。連続して4人もとなり、患者を担当した医師・夏目に、生命保険会社に勤務する森川から確認調査が入る。だが詐欺ではない。夏目と、友人でがん研究者の羽島が謎に挑む。政財官界のセレブたちが治療を受ける、がんの早期発見・治療を得意とし再発した場合も完全寛解に導くという病院にたどり着く。

医師と保険調査員の視点が複合的で、物語を深くしています。想定範囲内の謎というのは、明らかにミステリ読み過ぎのわたしの意見です。他の方が読むと、きっと驚きがあり、神か悪魔か審判に迷い楽しめると思います。がんで亡くなる割合が多くなっているのは、高齢化が根源にあるのでしょう。でも友人を亡くしていると、すがりつきたくなりますね。

乾禄郎

「完全なる首長竜の日」

少女漫画家の和淳美は、植物状態の人間と対話できる「SCインターフェース」を通じて、意識不明の弟と対話を続けるが、淳美に自殺の原因を話さない。ある日、謎の女性が弟に接触したことから、少しずつ現実が歪みはじめる。

連載に翳りが見え打ち切りとなる淳美は、次の道が見つからず、助手のデビューを応援します。弟との対話にちょっと未来型の装置を設定した、夢と現実とのあわいが次第に混沌としていきます。途中で淳美の状況を推測できてしまいますが、ラストまで読ませます。多少狭い世界だとは言え人間の心理を見据え、「首長竜」の小道具で希望を残します。感覚的には好きな作家です。次作はどうでしょうか。

乾禄郎

「海鳥の眠るホテル」

恋人と別れた千佳は美術モデルのアルバイト先で出会った新垣と付き合いはじめ、二人で撮影場所に選んだ廃墟で、何者かの気配を感じる。認知症を患った妻・君枝の介護に専念するため退職した靖史は、君枝から目が離せなくなった。人里離れた廃墟と化したホテルに棲む、記憶を失った男がカメラを持った女性を見つけを追う。三人の記憶と現実が交差してひとつのファインダーに収まったとき、世界はくるりと反転する。

廃墟を中心とした、幾人かの現実と記憶と時間軸が次第にリンクしていく描き方が魅力的です。死を濃厚に感じさせながら、幻想的で心に迫ってくるものがあります。構成力に支えられたシーンが、セピア色に重なり次第に色濃い現実に辿り付くのです。感覚的にはおもしろいですが、素材がありきたりなのが惜しいです。

五十嵐貴久

「贖い -あがない」

東京の小学校の校門に男児の切断された頭部が置かれていた。埼玉県では林で中学生の少女の刺殺死体が発見される。愛知県ではスーパーで幼児が行方不明に。事件の捜査は広域のため警察の総力を挙げたが、難航した。警視庁の星野警部と新人刑事・鶴田里奈もローラー作戦から参加していた。

2段組みで465ページだが、丹念でいながらスピード感があり引き込まれて読みました。犯人はかなり前半で登場しますが、3件のつながり、被害者たちの心理、犯罪の動機をじわじわとあぶり出していく過程を書きたかったのでしょう。20年の復讐への思いがそこまで強く残るものなのかと、唸らせるところがあります。ただ動機となる同じような事件が多過ぎるため、新鮮さがないのが残念です。

五十嵐貴久

「誘拐」

旅行代理店の人事部の孝介は、銀行主導の経営再建でリストラした同僚家族の自殺に直面する。娘の同級生も含まれ、娘にきつい言葉を投げられ妻とも疎遠になる。そして娘の自殺。孝介は退職した。その頃歴史的な条約締結のため、韓国大統領が来日する。警察が威信をかけてその警護にあたる中、現職総理大臣の孫が誘拐された。市民を通じて出された要求は、条約締結の中止と身代金30億円。頭脳犯の完璧な計画に、警備で手薄な警察の捜査は難航する。

ストーリー展開がおもしろく、読ませます。2008年の作品ということで、通信機器や録音機の古さは否めませんが、その盲点を突く手段での誘拐手段、警察への要求の仕方、身代金を10台の車で成田方面に走らせるなど、映像にしても楽しませると思います。孝介の心理、そしてラストの収斂もうまいです。事件の出だしで、伏線に気付いてしまったため、途中で結末を予想できたのが惜しいです。いえ、きっとミステリの読み過ぎでしょう。

五十嵐貴久

「南青山骨董通り探偵社」

雅也は大手企業に就職したものの、営業成績第一主義の部署からの移動願いを跳ね返される。探偵社の社長・金城から突然話しかけられた。「探偵になる気はありませんか」雅也は訝しみながらも体験入社をするが、厄介な事件に関わることになる。個性的なメンバーの活躍と、仲間意識に惹かれていく。

大手企業での意欲のわかない不満の日々から、一転したバイトの探偵業は刺激的で強烈にハマっていきます。組織と人の、知らなかったつながりに目を開いていく雅也のキャラは、世間知らず過ぎかも知れません。それでも軽快なテンポで読ませてくれます。

市川憂人

「ジェリーフィッシュは凍らない」

特殊技術で開発された小型飛行船「ジェリーフィッシュ」。その発明者ファイファー教授を中心とした技術開発メンバー6人は、次世代型ジェリーフィッシュの長期航空試験に臨んでいた。ところがフライト中に、密室状態の艇内でメンバーの一人が死体となって発見される。さらに、自動航行プログラムが暴走し、彼らは試験機ごと雪山に閉じ込められてしまう。脱出する術もない中、次々と犠牲者が出る。

未来型の乗り物と、アナログな通信手段と低パソコンレベルで、とまどいました。ストーリー設定は楽しめます。密室ミステリとしてはアリです。ただ、ラストで犯人に語らせるのは興ざめです。デビュー作ですから、化けるかどうか注目はしておきましょう。

乾石智子

「夜の写本師」

右手に月石、左手に黒曜石、口のなかに真珠。三つの品をもって生まれてきたカリュドウ。呪われた大魔道師アンジストに目の前で育ての親を殺されたことで、人生は一変する。宿敵を滅ぼすべく、カリュドウは魔法ならざる魔法を操る「夜の写本師」の修業を積む。さかのぼること1000年前の惨劇。死に際に復讐の呪いをかけ、何度も生まれ変わったものが魔道師を追い詰めていく。

原因となる惨劇の描写がおもしろいです。何代にも渡る、憎しみの強さと戦わざるを得ない繰り返しがすさまじいです。ラストの「夜の写本師」が少し弱いのが残念です。

石持浅海

「BG、あるいは死せるカイニス」

全人類が女性として誕生し成長した後に、一部の優秀な女性だけが男性に性転換するという世界だった。流星観測に出かけた高校生の姉・西野優子が、深夜の学校で殺害された。美人で頭もよく、男性化候補の優子が、なぜ、誰に殺されなければならなかったのか。レイプされかけた優子の死体を発見した妹の船津遙は、姉の死にショックを受けながらも怒りを胸に死の謎を追い始めるが、第二候補の宮下も殺される。辿り着いた都市伝説「BG」、デュッセルドルフ病研究者、ジャーナリストは何を示すのか。優子の死の謎が解けるとき、世界はくるりと反転する。

女性として誕生する世界の設定に、強く引かれました。出産後男性化すると仕事が楽になり収入はアップ、定時退社など特別処遇になり、子どもを産ませる課題が重視されます。優子が日頃から言っていた言葉や都市伝説「BG」などを、遙は教師や校長、捜査の刑事にまで逆に質問し、推理をしていきます。細かな言い回しから、その言葉の背景、心理を想像する過程が鋭いです。「特別なBG」となった遙が、研究者として取った道が人類にどんな結果をもたらすのか、新鮮な結末でした。 男性の存在意義は生殖機能だけなのかと、シニカルな気分にさせられます。現実と対応させるとなんともおもしろく、男性には多少ショックもあるかも知れません。どういう生態系になっても、人間は犯罪を犯す生物なのだとも改めて思わさせられました。何作も読んでいた作者が、8年前にこういう作品を書いていたとは知りませんでした、おもしろいです。

石持浅海

「耳をふさいで夜を走る」

並木直俊は、冤罪被害者支援団体でケアしてきたかわいい妹たち、「アルラウネ」の谷田部仁美、岸田麻理江、楠木幸の三人を殺す決意した。世界の破滅を避けるために、「覚醒する」前に彼女たちを殺すしかない。完璧な準備を整え一切の嫌疑がかからない殺害計画だった。だが計画に気づいたと思われる奥村あかねが、阻止しようと動き事態は思わぬ方向に転がりはじめる。

殺人の描写がリアルっぽく、おもしろい展開でした。タイトルの誰が「夜を走る」、何に「耳をふさいで」なのか意味がありました。部分的に説明が長過ぎ、心理描写で立ち止まらせ過ぎ、数カ所でそこにも指紋が残るだろうと懸念した点は、一切スルーなのが気になりましたが、それでも読ませます。誰の中にもある殺人願望と、それを行動に移す一線は世界が違います。興味深い世界でした。

石持浅海

「カード・ウォッチャー」

タイムカードの退社時刻はみんな揃って17:55で打刻。残業はなしという会社で、遅くまでサービス残業をしていた研究員・下村が起こした小さなイス事故をきっかけに、労働基準監督署の臨検が入ることになる。書類の準備と問題のイスを準備していた総務の小野は、倉庫で変死体を見つけてしまう。もうすぐ監督署の職員が来るのに、どうしたらいいのか。

一般の会社員にはなじみのない労働基準監督署の臨検を、ミステリに仕立て上げた設定が新鮮です。労基署の知識が多少あると、もっと突っ込みどころがあるだろうと思って物足りません。ですが、監督官・北川のキャラが味があり、時系列的に推理してみせる頭脳明晰さ、紳士的態度、茶目っ気でオチを付けていていく展開はおもしろいです。同じ材料で、もう一歩踏み込んだ物を書いてみてほしいです。

石持浅海

「まっすぐ進め」

書店で真剣に本を選ぶ美しい女性の、1点の違和感とともにまるで絵画のような光景に川端直幸は見とれた。友人の紹介でその女性・高野秋と偶然に知り合う。2本の腕時計をしている秋も直幸に惹かれ、ふたりの交際は始まる。だが、時折見せる隔絶したちらつく深い闇は、秋から消えない。バーガー・ショップで迷子のみさきちゃんの面倒を見ているうち、リュックを下ろせないことに気付く。

魅力的なキャラの秋と、次第にその思考回路の魅力に気付かされる直幸が、じつにおもしろかったです。日常の中で出会った謎を解決していきながら、秋の謎に少しずつ触れていく展開が前作とは別人のようなうまさです。ラストも悲惨極まる事件への、きっぱりとした姿勢がみごとです。改めて、作者の力に触れました。他にもいくつか読んでみたいです。

石持浅海

「温かな手」

大学の研究室で仕事をしている畑寛子は、休日なのに出勤した研究室で、院生の死体を見つけてしまう。警察の捜査が始まり、同居しているギンちゃんが駆けつけてくる。話を聞いたギンちゃんはたちまち、事件の真相を見抜いてしまった。ギンちゃんは人間の生命エネルギーを糧にする謎の生命体であり、宿主であるパートナーの「おいしい」清らかな生命エネルギーが濁らないようにしてくれる。寛子がストレス食いを余分なエネルギーを吸われるので、スリムな体を維持できる。偶然遭遇した殺人事件や騒動にも、鋭い観察をもとに鮮やかに解き明かし、気持ちを清浄化してくれるのだ。北西匠はギンちゃんの妹・ムーちゃんと同居している。北西はムーちゃんが絡まれた電車の痴漢犯人が、ナイフを刺される現場に出くわしてしまう。

謎の生命体の存在感が、微妙にそそられます。こういう人(生命体)と、暮らしてみたいなどと思ってしまいました。同居人が7つの事件に巻き込まれ、兄妹の生命体が解明していきます。人間の心の歪みを描きながら、信じられる人間もいることを強く感じさせてくれます。ラストで描く、老人ホームの入居者の女性の姿は切ないですね。人間とそうではない生命体との哀しみが伝わってきます。違いをぶつけるのではなく、違いを認め合い受け止め共存することで、もしかしたら世界は成り立っているのかも知れません。

石持浅海

「水の迷宮」

三年前に不慮の死を遂げた水族館職員・片山の命日に、事件は起きた。一通のメールは、展示生物への攻撃を予告するものだった。水族館という限られた空間、しかも大勢の客がいる中で、次々に 水槽に仕掛けをする犯人に翻弄され、事態は悪化していく。姿なき犯人の狙いは何か。そして、再び殺人事件が起きた。

警察に届けると水族館の将来はないという設定から、職員とわずかな外部者で謎解きをする展開が、おもしろくもあり限界も感じさせます。途中で犯人像が浮かんでしまいましたが、水族館の裏側などの細かなディテールと、そこに働く職員たちの動きがいいですね。亡くなった片山の夢の全貌が明かされるラストが、ちょっときれい過ぎるかも知れません。幻想的、非日常的な空間の水族館のイメージで、物語のほころびがかろうじて救われたと思います。

石持浅海

「扉は閉ざされたまま」

久しぶりに開かれる大学の同窓会。成城の高級ペンションに七人の旧友が集まった。完璧な密室をつくることができると、伏見は客室で事故を装って後輩の新山を殺害、外部からは入室できないよう現場を閉ざした。眠っただけなのか、事故か、自殺か。友人たちは部屋の外で安否を気遣う。犯行は計画通り成功したかにみえた。ただひとり優佳だけは疑問を抱き、伏見に接触してくる。緻密な偽装工作の齟齬をひとつひとつ解いていく優佳と伏見の、開かない扉を前に息詰まる頭脳戦が始まった。

おもしろい展開でした。閉ざされた扉を前にして繰り広げられる、心理、論理がなかなかスリリングです。犯行シーンから始まり、扉をたたき壊すのも、警察に通報するのも、セキュリティ会社に連絡するのも躊躇わせる理由があり、それが引きつけて読ませます。なぜ伏見は殺害から発見までの時間かせぎをしたのか、そして動機がいまいち希薄のが、惜しいです。

石持浅海

「この国。」

一党独裁の管理国家であるこの国では、国家に対する反逆はもっとも罪が重く、人材育成をなにより重要視する。小学校卒業時に将来の職業階層が決められ、非戦平和を掲げる士官学校は公務員養成所となっていた。国家反逆罪の主犯が公開処刑を行われる場所で、治安警察の番匠少佐はテロリストとの裏の裏を読み合う攻防を繰り広げる・・「ハンギング・ゲーム」
経済は豊かで、多くの女性が売春婦として限定期間の仕事をしている。そこでサタの客ばかり連続して殺された。事件の真の犯人は誰か。番匠少佐は解決に乗り出す・・「エミグレイティング・ゲーム」

5編の連作です。歪んだ世界を物語の舞台にしてしまった、石持さんの感覚はすごいです。死刑さえもひとつの娯楽として受け入れてしまっている国民の姿や、警官とテロリストのどちらも「この国」のために行動を起こしていて、どちらもが独自の論理で動いています。ゲームと言ってしまえばそれまでですが、どこかの国への皮肉を感じて、思わずにやりとしてしまいました。

石持浅海

「八月の魔法使い」

入社7年目の総務部主任・小林拓真は、お盆期間ののんびりとした空気の中で仕事をしていた。簡単な書類に社判をもらうだけのはずだったが、係長が提示して部長席にちらりと見えたのは、とんでもない書類だった。その頃、社長以下役員勢揃いの会議室で企画部長が、ゆるい企画のプレゼン中だった。拓真の恋人の金井深雪は指示通りにオペーレーターとしてプロジェクタを操作していた。だが、資料に紛れ込んで映し出されたのは、存在してはならない「工場事故報告書」だった。急に物々しい雰囲気になり、深雪は拓真にSOSを送る。役員会議室と総務部で、同時に混乱が起きた。

総務部が現場から離れたところで、さまざまな推理を繰り広げる展開と、雲の上の役員室を微妙にシンクロさせながら話が進むのが、いままでにないおもしろさです。社長が見いだそうとしていたものとはなにか。拓真が、実は切れ者の係長との対決に足を踏み入れてしまうのはなぜか。組織の絡みが克明に描かれながら、リアリティを突き抜けたところで構築された推理劇です。かつていかに人を動かすかを考えながら仕事をしていて、会社の「見えない黒幕」と言われたわたし自身を見るようでした。決して華々しくはない、企業内部の駆け引きに興味をお持ちの方にお勧めです。

石持浅海

「ガーディアン」

社内のプロジェクト・チーム6人は、プレゼンテーションの準備に余念がなかった。幼時に父を亡くした勅使河原冴はデザインの担当だった。飲み会で冴が「ガーディアン」と呼ぶ危険からバリアする力を、同僚に暴露されてしまう。「ガーディアン」は、冴の危険を回避するためだけに発動する。悪意を持った攻撃はより激しく無能化する。不可思議な力を目前で見てしまった同僚たちと帰る途中の階段で、一人が真っ逆さまに転落して死亡した。警察は自殺として扱かったが、冴は落ち込んだ。

1章2章は冴のストーリーで、3章は娘の円に引き継がれた力が起こす事件を描いています。バリアする力が事件を引き起こしているのではないかと悩む姿に、共感します。ちょっぴりわたしにもその力があったらと、空想してしまいます。おもしろい人生になりそうな気がします。娘の円がその力を利用したラストは、ここまでやるかと潔さを感じさせますが、後味が微妙でした。完全にリアル世界と切り離せたら、問題はないのですが。

石持浅海

「君がいなくても平気」

携帯関連会社ディーウィとベビー用品メーカー・ベイビーハンドの、業務提携によって結成された共同開発チームは、着ロボのヒット商品を生み出した。祝勝会の翌日、二日酔いでゆるやかに仕事をしていたときに、チームリーダー・粕谷が突然倒れて死んでしまう。死因はニコチン中毒。殺人か、事故死か。疑心暗鬼のなか、共同開発チームに所属する水野は、同僚で恋人でもある北見早智恵が犯人である決定的証拠を掴んでしまう。悩みながら粕谷の葬儀に参加し、戻りの新幹線車内でまた一人が倒れた。

チームと社内の複雑な思惑が交差する中、一人一人のプライベートを知る機会はほとんどありません。付き合っている恋人のことでさえ、見えてはいないかも知れません。恋人の殺人を確信しながら証拠がなく、そのまま仲のよさを周囲に見せている水野の、心理が大変おもしろです。追い詰められていく展開と、次のターゲットは誰かを考えていくスリリングさがいいですね。ラストもありがちでいながら、ひと工夫があって好感度が高かったです。

石持浅海

「Rのつく月には気をつけよう」

湯浅夏美と長江高明、熊井渚の三人は、大学時代からの飲み仲間で、毎回うまい酒においしい肴と、そこに誰かが連れてくるゲストは、定番の飲み会にアクセントをつける格好のネタ元だ。気持ちよく酔いもまわり口が軽くなった頃、盛り上がるのはなんといっても恋愛話だ。

7編の短編集です。ゲストとの会話から、明晰な頭脳をもつ長江が隠れた真実を解き明かしていきます。 ゲストたちの恋愛話にまつわるちょっとした謎解きと、美味しそうなお酒と肴を一緒に味わえます。暑い夏を、ちょっと涼しくしてくれると思います。

石持浅海>

「顔のない敵」

一九九三年、カンボジア。NGOのスタッフが地雷除去作業をつづける荒れ地に、突然の爆発音が轟いた。立入禁止区域に地元の有力者が踏み入り、無惨な頭部を半分吹き飛ばされた死体になった。単なる事故なのか・・「顔のない敵」
センサーで地雷を見つけ出し、接着剤を注入して無力化する ムカデ型の地雷除去ロボットを開発した日本人技術者チームが、カンボジアでの実地テストが成功した日の夜、技術者の一人が殺されてしまう。頭部を接着剤で覆った異様な状態だった・・「未来へ踏み出す足」

6編の連作短編集です。NGOの大変さだけでなく、 人間関係や資金繰りなどのボランティアや開発途上国の醜い現実などにも視線が向けられています。あざといけれど寄附を多く獲得する才能のある人物もいるし、口が重く心の中に抱えているものが見えない人物もいます。決して美談で終わらない現実を、考えさせられます。

石持浅海

「君の望む死に方」

死を告知されたソル電機の創業社長・日向は社員の梶間に、自分を殺させる最期を選んだ。幹部候補を対象にした、保養所での「お見合い研修」に梶間ほか4人の若手社員を招集し日向の思惑通り、舞台と仕掛けは調った。あとは、梶間が動いてくれるのを待つだけだった。だが、盛り上げ役のゲストとして招いた優佳の行動で、計画は微妙に狂いはじめた。

どうぞ殺してくださいと言わんばかりの、日向の安易すぎる凶器の準備がことごとく優佳によって消されていくのは、当然かも知れません。ただ殺そうという行為に踏み切る瞬間の梶間の心理までが、弱いのが気になりました。ラストに準備された凶器は暗示的ですが、「殴るのは◯手だ」というのが引っかかりました。利き手の方が意思が伝わるように思いました。それでも読ませる力がありました。

石持浅海

「人はミイラと出会う」

留学生のリリーは、ホームステイ先の娘・慶子から日本の風習を勉強しているが、知らないことがたくさんある。慶子の従兄で「人柱」を職業にする東郷は、難工事の完成を祈願し、神への生贄として生きた人を地中や水底に埋められ、数ヶ月から数年を孤独に過ごす。その工事現場からミイラが発見されるという、奇怪な殺人事件に遭遇する。・・「人柱はミイラと出会う」
黒子が活躍する議会での陰謀・・「黒衣は議場から消える」
鷹も警察の捜査に活躍する・・「鷹は大空に舞う」

江戸の風俗が息づくパラレル・ワールドの日本で、「人柱」を職業にする東郷が、持ち込まれる謎を解いていく短編集です。尋常な精神力ではない、「神」の存在に近いのかも知れませんね。興味深かったです。設定は甘いけれど、軽めに楽しめます。

石持浅海

「見えない復讐」

投資家・小池の前に現れた、出資を求める大学院生・田島祐也は仲間と三人でベンチャー企業を起ち上げたばかりだった。小池が田島の謎めいた行動から、彼が母校・東京産業大学に対しての復讐心を抱いていることを見抜いたのは、小池もまた恨みを抱えていたからだっだ。出資が決まり、田島たちは意欲的に事業に取り組み順調に成長した。その間、密かに大学への嫌がらせを続けていたが、復讐の気持ちの変化が起きていた。

論理的に破綻の少ない展開をしています。共振したかのように、わたしには次の展開が見えてしまいました。ラスト近くの小池の、田島の社員への働きかけだけで事件が起きる点は、少し無理があります。理論通りにはいかない、という設定のポイントだけに惜しいです。

石持浅海

「リスの窒息」

名門中学に通う栞は、友人・聡子とともに狂言誘拐を企て、秋津新聞社に身代金を要求した。秋津新聞社は、過去に別の記事で自殺者を出していることから、警察に通報しにくい事情があった。矢継ぎ早に送られてくる、脅迫メールの内容と添付される写真はエスカレートしていく。身代金を受け渡しはどうするのか・・・。

アイデアはおもしろいのですが、無駄な会話や行動の描写がいらつきます。まとめたら半分で済みます。両親が死んだ直後に、女子中学生がすぐに悪事を思いつき実行するのであれば、その前の心理描写で納得させないとあまりにも荒唐無稽になってしまいます。ラストまで日記を書いている程度の浅い文章なので、途中放棄しようと思ったほどでした。残念です。

狗飼恭子

「遠くでずっとそばにいる」

27歳の朔美は、会社を辞めた日に事故で10年分の記憶を失った。絵を描くことを目指していたのに、スケッチすら残っていない。部屋は趣味の悪いピンクに埋められ、明るい母が再婚した新しい家族との居心地の悪い家だった。高校のあこがれの細見くんは、恋人になっていた。高校時代の薫ちゃんを頼りに過去を辿っていくが、浮き彫りになるのはどこまでも孤独な、嫌な面ばかりの自分だった。クローゼットの奥から出てきた赤い毛糸の帽子、差出人不明のバースデーカードなどのかけらが、思いもよらない事故の真実を明らかにする。

10年先の未来の自分に会うような、記憶喪失です。高校生から、いきなり物わかりのいい大人になることもできません。27歳の「彼女」の足跡を辿るのは、もし自分だったらとぞっとしました。忘れられる過去があるから、いまの自分があると思うのです。過去に向き合うことの大変さと、人生をやり直すことができるおもしろさと、もろい自分を見つめるストーリーは意外に真摯なものでした。

磐木大

「自殺請負人」

自殺サイトで知った自殺請負人・津雲の表家業は探偵だった。トオルは津雲と話すうちに自殺を思いとどまり、探偵事務所で助手として働くことになった。自分を捨てた彼氏を困らせたい。前人未踏の方法で自殺したい。そんな自殺志願者たちの来訪に、冷静に対処する津雲と精神科医・雪乃だったが、トオルは思わず感情的になってしまう。

直感的に行動してしまう性格のトオルから見た津雲の、過去や人間性や心の動きがおもしろいです。対話することで相手の何を動かすのか、ちょっとした言葉で分析していきます。雪乃の存在がうまく物語を繋いでいきます。相当に編集者の手が入っているだろうと感じさせますが、それでもなお引き込まれてしまいます。今後作家として進むのかどうかはわかないけれど、次作が出たら読んでみたいです。

板倉俊之

「トリガー」

2028年、日本は王政が敷かれる。射殺許可法の下に、各都道府県に1名ずつトリガーを配置した。拳銃ベレッタを手に、トリガーが「悪」を裁き、その行為は法的に処罰されない。しかしトリガーにも問題があった。身近な『悪』を片っ端から撃ち殺すものや、任期中に一人も撃たないものもいる。かさなりあい、世論の批判を受け、政略が動き出す。

ライトな書き方で、切れがいい文章です。体言止めの多用は、想像を阻まれます。それでもなんとかラストまで読ませました。ばらばらの話が、最後にはしっかり盛り上げまとめる力はあります。「悪」の定義は様々です。私怨かと思われる判断もまた人間の「悪」でしょう。批判を受けた国王交代で、次国王の出した法が皮肉ですね。悪を取り締まる難しさはわかっていますが、やりきれなさも残ります。

板倉俊之

「蟻地獄」

二村孝次郎は幼馴染で悪友の大塚修平とともに、カジノでの大儲けを計画する。裏カジノでのイカサマを成功させ、大金を手に入れたかと思った。だが、案内された別室でオーナーの柏木にたっぷりと痛めつけられる。イカサマは見破られていたのだ。修平を人質にとられ、5日後までに300万円を持ってこいと要求された孝次郎は、金をつくるために、青木ケ原樹海へ足を踏み入れる。

裏カジノや臓器売買がまかり通る場所に、まんまとはまってしまった二村たちの認識の甘さが引き起こした事件です。さすがにエンターティメント性が抜群で、自殺サイトや廃病院での自殺、殺人事件と駆け抜ける時間軸がうまいです。435ページがあっというまに読めました。おもしろいけれど、だからどうなのよという突っ込みは、止めておきましょうか。キャラが類型的過ぎるのかも知れません。

一田和樹

「サイバーテロ 漂流少女」

「平坦主義」によるサイバーテロは、数人の子どもたちが主導していた。SNSに巧妙に仕掛けられた罠が、日本という「システム」をダウンさせる。彼らは核兵器に匹敵する武器を手にし、金融取引停止、大規模停電、交通麻痺。二十四時間以内に阻止しなければならない。

サイバーセキュリティ・コンサルタントの君島の、ツイッターやメールの個人情報流失のシーンは、なかなか迫力を感じさせます。脆弱なセキュリティにもたれている企業や金融、交通機関の体質の一端も見えました。顔認識の曖昧さや記憶力をうまく処理し、ミステリに仕上げています。だらけた会話が、ゆるゆるにしてしまうのが最大の欠点だと思います。地の文章力のアップが期待されます。

一田和樹

檻の中の少女

サイバーセキュリティ・コンサルタントの君島のもとへ、老夫婦が依頼にやってきた。自殺したとされる息子の死の真実を知りたいと。ミトラスという自殺志願者とその幇助者をネットを介在して結び付ける組織で、息子が多額の金を振り込んでもいたらしい。さまざまな情報を集め、やがて君島が「真相」を解き明かし、老夫婦の依頼に応えたとき、これまで隠されてきたほんとうの真実が見え始める。

軽く読み進められる作品です。本業もうさんくささを感じさせる、ぎりぎりセーフの展開でした。サイバーセキュリティも、多少わかる人なら誰でも知っている段階のもので、いまいちかも知れません。カッコいいはずの君島のキャラ設定が、どうにもおっさんくさくてちぐはぐでした。言葉も発想も作者の年代が見え過ぎです。

一田和樹

「キリストゲーム」

201X年『キリストゲーム』とよばれるゲームが若者の間で流行する。『導き手』のためになる「何か」をした後、『救い主』が自殺する、というのがそのルールだった。『導き手』と『救い主』が出会うためのネットサービス『法王庁』の参加者は百万人を超え、毎日数十人の『救い主』が自ら命を絶つという社会的危機を打破するため、内閣官房配下の諜報組織CITはゲームの全容解明と根絶を目的とする「オペレーション・ユダ」を発動し、刈戸は隊長に就任した。

サイバーテロとの攻防は頑張った設定ですが、肝心の刈戸のキャラがどうにももたつき過ぎです。ネットの感覚が薄く、付け焼き刃が見え見えです。都合が悪くなると別な人の視点で描き、なんとか着地したというところでしょうか。作者がこういう感覚でサイバーセキュリティの第一人者とは本当でしょうか。

市井豊

「聴き屋の芸術学部祭」

学園祭中の大騒動を、柏木が所属する文芸サークル第3部ザ・フールの愉快な部員たちが謎解きを繰り広げる。

さらりと解き明かしていく推理展開は、心地よく読めます。深くはなく楽しいのです。ただ、さらりとし過ぎて印象に残らないのも確かです。

宇月原晴明

「かがやく月の宮」

「竹取物語」が秘匿されていた真の姿を見せる。竹から産まれたという逸話も、五人の公達の尋常ならざる貢物も、すべて竹取翁の仕掛けた罠だった。翁の術中にはまった帝は禁裏を抜け出し、竹取館へ向かう。愛しのかぐや姫と邂逅を果たした帝は、しかし、病に伏してしまった。天照大御神の末裔は一体、何を見たのか。姫が昇天する夜、月が真実を照らし出す。

噂だけのかぐや姫を取り巻く、人物像が実在感を持って登場します。そして翁の張り巡らせた計画にまんまと乗せられ身を滅ぼす男たちが、強烈な印象を残します。帝でさえ病弱をかこつ身でありながら、遭いたい思いに走らされる、ある種の狂気の世界です。微かにつかんだと思った姫の香りから、頭の切れる帝が出したかぐや姫の正体が、とても興味深いです。映画でも描かれていたなかった、月の裏側のような描き方が新鮮でした。ブラックなジブリ映画にしてみたい誘惑に駆られます。

榎本憲男

「エアー2.0」

新国立競技場の工事現場で働く中谷は、クビになる老人と関わる。彼は大穴馬券を中谷に託して去った直後、馬券は見事的中する。一方で工事現場では爆破事件が起こった。多額の現金を手にした中谷の前に再び老人が姿をあらわし、彼が進める壮大な計画を手伝うよう依頼される。老人は感情をも計算して完璧な市場予測をはじき出す「エアー」というシステムを開発しており、高級ホテルのスイートルームでエアーを操り、瞬時に巨額の富を生み出すのだった。老人から代理人に指名された中谷は、日本政府にエアーを提供する交渉の窓口として政治家や官僚たちと会うことになる。政府が持つ、より大きなデータをインプットすることでエアーは最強になり、市場予測は完璧なものに近づく。その力に気づいた財務省の若手官僚・福田はエアーの導入を推進するが、中谷が要求したのは、福島の帰還困難地域を経済自由区として、自分たちにその運営を任せよというものだった。

いまの閉塞感に風穴を空けたいという最近の気持ちが、この本を手に取らせました。村上龍「オールド・テロリスト」「希望の国のエクソダス」にも何かを期待していた自分がいます。村上氏より現実に近いリアリティがありますが、経済自由区と流通マネーは破綻を予想させます。ラストで次の希望を託された中谷たちが、果たして未来を描けるのか。わずかな光は残されます。ぐいぐい引きつけて読ませる力は、久しぶりに出会った作家です。次作も読んでみたいです。

王城夕紀

「青の数学」

雪の日に出会った女子高生は、数学オリンピックを制した天才だった。その京香凜(かなどめかりん)の問いに、栢山(かやま)は困惑する。「数学って、何?」。若き数学者が集うネット上の決闘空間「E2」。全国トップ偕成高校の数学研究会「オイラー倶楽部」。ライバルと出会い、競う中で、栢山は香凜に対する答えを探す。ひたむきな想いを、身体に燻る熱を数学へとぶつける。

夢中になることを見つけ、必死に食らいつこうとする若い才能は、まぶしいですね。将棋でもアスリートでも、若い子の芽を開かせてやりたいと思います。高校生のとき、わたしは何に向かっていたでしょうか。もっと体を鍛え、音楽に打ち込んでいたら別な人生があったかも知れません。出会った時がチャンス。素早くつかんでものにする。勇気とやはり才能も必要でしょう。数学好きな読者としては、とてもおもしろく読めました。

緒川怜

「霧のソレア」

テロリストが誤って仕掛けた時限爆弾により、太平洋上を飛行中の289人を乗せたジャンボジェットが大破してしまう。機長を失うが、女性副操縦士の奮闘で飛行機は成田空港へと向かっていた。しかし突然、通信機器が使用不能となり地上との交信ができなくなる。飛行機をそのまま墜落させるため、アメリカが電子戦機を出動させ、電波妨害を始めたのだ。米政府、CIA、日本政府、北朝鮮。権力同士の闇のつばぜり合いが拮抗するが、女性パイロットは最後まであきらめない。

航空機の緻密な設定がしっかりしているので、対応策にもリアリティがあります。映画を見るような展開に絡ませる、数カ国の政府や諜報機関の介入は少し無理があるかも知れません。それでも読ませます。どうしても人の心理への踏み込みが少なくなるので、読後に印象が残りにくかったです。

緒川怜

「冤罪死刑」

三年前、犯人逮捕で終結した少女誘拐殺人事件の裏側には、あまりにも多くの嘘や裏切り、腐敗や汚職があふれていた。山崎被告は、弁護士・希久子に無罪を告げ弁護を依頼した。同じ頃、性犯罪と連続殺人事件で死刑執行を待つ栗原を、心理学者・大谷が接見していた。冤罪事件は、目撃証言に挟み込まれた意図、被害者の母の衝撃的告発、そして埋葬された記念品など疑惑に満ちていた。事件を洗い直すべく動き出した通信社記者・恩田と弁護士・希久子は、次々と意外な事実に突き当たる。

死刑執行シーンのリアリティに引き込まれます。二人の被告の接点などストーリーもおもしろいです。ただ、些末なことの描写が多く、肝心の被告や事件の描写のバランスが悪いのか、散漫な印象を残してしまいます。構成をもう少しドラスティックにしてほしい、読者のわがままです。

緒川怜

「特命捜査」

瀬川刑事は過去に、取調室で被疑者死亡事件を起こしていた。功刀(くぬぎ)沙矢子刑事は、親に捨てられ孤独に生きてきた。二人に与えられた極秘の特命は、十年前に起きたカルト教団集団自殺・連続爆破事件の捜査直後に依願退職した、元公安警察官殺害事件の真相解明だった。メンツ、建前、他人への無関心、保身、事なかれ主義などの、組織の論理に振り回され連続して起きた現場警察官の自殺だった。だが公安警察が卑劣な捜査妨害を仕掛けてくる悪環境の中、二人は粘り強く捜査を進めるのだが・・・。

かつての北朝鮮への帰還事業や、公安の暗部、瀬川の妻にかけられた催眠療法など、幅を広げ過ぎた感じがあります。湛然に歴史や組織、カルト集団を調べている点はすごいのですが、どうしても印象が散漫になってしまいます。あちこちに穴を掘り、まとめるべきラストまでが登場人物たちそれぞれに都合のいいものになりました。焦点を絞った方がいいのではないでしょうか。

緒川怜

「サンザシの丘」

一人暮らしの女性が部屋で殺害された。逃げる犯人は目撃されていた。義憤を胸に秘めた刑事は、さまざまな人間に会い、一歩一歩、その男に近付こうとする。容疑者として浮かんできた青山は偽名で、住民票の不正操作で作成されてきたものだった。本名は中国残留孤児二世・城島だった。捜査を進めるうちに見えてきた、犯人の哀しい過去は、戦後日本がまだ精算していない「現実」を浮き彫りにするものだった。

日本人でもない、中国人でもないアイデンティティの揺らぎを感じながら生きる男の姿を、刑事の目から実証していきます。けれどどこか隔靴掻痒感があります。入院しているたった一人の肉親の妹にたどり着き、逮捕に至ります。国籍問題を軸にしたかったのか、受けた虐待や待遇の実態を訴えたかったのか、まして刑事の執念を描きたかったのか、どこにも熱さを感じさせませんでした。知識を使って小説を書けるけれど、何かが欠けているように思えます。あるいは書くことから目を背けているものがあり、それこそが本当は書きたかったものかも知れません。

打海文三

「ぼくが愛したゴウスト」

臆病で生真面目な十一歳の少年・田之上翔太は、はじめてひとりで人気ロックバンドのコンサートに行った。その帰りに翔太は駅で人身事故発生の瞬間に居あわせてしまう。「見るな」と言った青年とは、あとで再び会うことになる。家に戻った翔太は、この世界に微かな違和感を抱きはじめる。両親、姉、大切な友人、全く同じにようでいてその実は「ちがう」人間だった。彼らには「心」がなかった。事故現場で合ったヤマ健も違和感を感じていたことから、元の世界へ戻ろうと奔走するが・・・。

よくあるパラレルワールドを描いているようでいて、じつによく「人間の存在」を考え抜かれています。静かな文体で切実な哀しみに満ちた文章も、時間の経過とともに一人称の翔太の文章も変わっていきます。知る世界も広がっていきます。だからなおさら、元の世界に戻れない哀しさがやりきれません。ラストを納得できるかどうかは、人間性への考え方で決まるような気もします。絶望的な状況なのに、かすかな希望が救いです。

打海文三

「愛と悔恨のカーニバル」

19歳の姫子は、町の中で小学校時代の友人の翼と出会った。ある日翼が姿を消してしまう。姫子を訪れたアーバン・リサーチの探偵・佐竹が、翼を追う。そして連続猟奇殺人事件が起こる。耳が削がれ、腹を喰いちぎられたた死体はほんとうに翼が犯人なのか。守ろうとするアーバン・リサーチの手からすり抜け、姫子は翼の心の闇に踏み込む。

翼と彼の姉・むぎぶえとの隠された関係や、翼を逆恨みした少年たちの狂気、その掴もうとしても掴めない人と人の繋がりをたぐり寄せようとしているようです。簡潔な文章、会話は性別を押し殺し、描かれる狂気の世界を現実感のないものにしています。翼の心を知りたいと、わたしも思ってしまいました。凄惨な殺人者の心の直中を覗いた気分です。古典的なトリッキーな女性の造形が少し残念です。現実にはありそうもないですが、わたしはこの作品のような心理もアリです。

打海文三

「ピリオド」

人里はなれた山村で、年老いた父親の看病をしながら暮らすを、探偵をしていた頃の同僚・万里子が訪れて自分の叔父が殺されたことを告げる。数日後、真船は山を降り東京へ向かう。京浜工業地帯の町工場と歓楽街が近接する街で、真船は友が残した痕跡を必死に追った。浮かび上がる不可解な事実とは、倒産直前の印刷会社の乗っ取りと、忽然と消えた9億円の土地証書の行方だった。

考えられた設定でザクザクと早い展開は嫌いではありません。ただ、この作品は真船の人物造形がくっきりせず、万里子を始め周囲の人間との繋がりの根底にある感情が伝わってきません。残念です。

泡坂妻夫

「生者と死者」(再版)

はじめに袋とじのまま、短編小説の「消える短編小説」。そのあと各ページを切り開くと別な物語が見えてくる。

袋とじ本というのを初めて読みました。その中で曖昧な書き方と思っていたものが、二つ目の本の中で腑線だったとわかります。やはり、という感じです。作りの奇抜さが楽しいです。

大島真寿美

「ゼラニウムの庭」

小説家の「るるちゃん」は70歳を超える祖母・豊世(とよせ)に家の秘密を書き残してほしいと言われる。それは密かに感じていたものを越える、壮絶な女たちと関わった男たちの人生だった。親戚のおばさんと思っていたのは、豊世の双子の妹・嘉栄(かえい)だった。豊世が高等女学校へ行くときにもまだ幼児でしかないほど成長が極端に遅い嘉栄は、別棟に隔離され専属の医師・桂先生や家庭教師を配され、対外的にはひた隠しにされて育てられた。治療のためと桂先生と嘉栄がイギリス、満州に行ったりして終戦直前に帰国する。若々しい姿の嘉栄は一人暮らしを始める。生きる時間の流れが違う嘉栄と、豊世と娘・静とその娘・るるちゃんとの関わりとは。

生きる時間の流れが2倍も違うということは、不老長寿ですが、周囲からは受け入れられない存在でしょう。不思議な生命体とも言える嘉栄に、一生を捧げようとする桂先生と数人がいます。逆にその「磁場」から逃れられなかった家族たちの心情も実に複雑です。ある時期に生死不明、戸籍もれとして死亡届を出すことになり、その書類を嘉栄とるるちゃんが見るシーンが軽いタッチですが印象的です。豊世が90歳で亡ってなお、戸籍なしに軽やかに生き続ける嘉栄もまた、その心情は屈折していたのです。すごい作品になりました。

大島真寿美

「チョコリエッタ」

知世子は幼い頃、事故で母を亡くしている。「死にたい」「殺されたい」、からっぽの心に苛立ちだけがつのる高校2年生の夏、進路調査に「犬になりたい」と書いて教師に呼び出しをくらってしまう。映画研究会OBである正岡の強引な誘いで、彼が構えるカメラの前に立つことになりる。気乗り薄だったが、レンズの向こう側へあふれるモノローグが、知世子の心を変えていく。

知世子は、母だけが呼んでくれた愛称「チョコリエッタ」を胸の中にしまっているのです。母親代わリに育ててくれた父の妹・霧湖ちゃんは、結婚して外へ出たがっています。父親も変わらざるを得ない状況、愛犬が亡くなり知世子も変わっていくという漠然とした状況。それぞれが少しづつ前に進んでいくしかないのです。映像の中に自分の変化を確認した知世子の、揺れる心理が愛おしいです。

大島真寿美

「やがて目覚めない朝が来る」

両親が離婚し母と有加が、伝説的な女優・蕗さんの住む古い洋館に転がりこんだのは、小学4年のことだった。 洋館の庭に咲く野性味をおびた薔薇とその香り。蕗さんとそのまわりには、心地よいと感じる人たちが集う。魂の母娘のような絆で結ばれた嫁と姑の関係も、あり得ない絶妙な穏やかな日々が過ぎていく。やがて誰にでも訪れる目覚めることの出来ない朝が来ることを、なんとなく感じ始める。

女優・蕗さん孫・有加の視点から、取り巻く周囲の人々や生活を描いきます。少ない分量の中に、濃密なそして消えそうに淡い空気や、芯を通す人たちの人生がくっきりと立ち上がります。なんという幻想的な背景、無理をしない大切なこと知っている魅力的な人たちでしょう。読みながら、こういう世界に暮らしてみたいと思うわたしがいます。人生の最期をどう迎えるかというのは、なかなか考えられませんが、すっと消えられたらいいかも知れません。ほんのささやかな一生でしかないのですから。作者の視点や感性が好きです。

大島真寿美

「ふじこさん」

離婚寸前の父と母に挟まれ、気持ちが揺れる小学生・リサが出会ったふじこさんは、乱暴できれいで、あっけらかんとしていて、これまでに見たことのない変な大人だった。週末別居している父の部屋に行くと忙しい父の変わりに遊んでくれた。けれど運命的なイスに出会ったふじこさんは、イタリアに飛び立った。・・「ふじこさん」

3編の短編集です。子どもの目線や、はっとする感受性は、大人のルールとは相容れないのです。だから子どもは口を閉ざすのです。「夕暮れカメラ」の遺影を取ってくれという老婦人。「春の手品師」の持つ不思議な異空間。どれもが魅力的です。大島さん、いい感性を持っていると思います。

大島真寿美

「虹色天気雨」

幼なじみ奈津のひとり娘・美月を預かることになった市子は、奈津の夫・憲吾が行方不明で奈津は憲吾を探しに出かけたことを知らされる。奈津は2日後戻るが、女性が関係していると推測した憲吾は見つからなかった。他人に引きまわされる市子、マイペースの元モデルの奈津、比較的冷静な仲介役のまり。彼女たちの交際相手だった男たちも複雑に絡んでいく。

周りに引きずられるタイプの女性はあまり好きではないのですが、この作品は別格でした。ささいなきっかけから思いがけない関わりをしていく人間たちの、心地よい空間ができています。センテンスの長い文章が、揺れる心を描くのに適しているような気がします。小さな気遣いの行動の描写がうまく、わたしには欠けている部分が興味深かったです。たぶん、この世界にはうまく加われないだろうと思います。作品として、特有の空気感、人間関係の緩さ、思いやりなどが、意図的にきちんと配置、描写されていると思います。

大島真寿美

「ビターシュガー(虹色天気雨2)」

市子と長い友人の奈津とまりの三人だったが、市子の家に、まりの恋人だった年下のカメラマン・旭が転がり込むことになり微妙に揺れていく。奈津のひとり娘・中学生の美月に弱みを握られ、別居中の父親・憲吾に会いに行くことを約束させられてしまう。まりに秘密を抱えた市子に、まりは仕事場で再会した年上の男性・内藤との新しい恋の悩みを相談される。

10年ほど経過した物語は、相変わらずゆるゆると展開をしていきます。そういう人間関係もアリかと、素直に読むことができます。底にあるやさしさや懐の深さが、なんとも言えずいい雰囲気です。わたしの周りにはそういう関係は存在しませんので、ある意味では異世界でもあるのです。ちょっとした食べ物や飲み物がおいしそうで、それもまた隠し味かも知れません。

大島真寿美

「ピエタ」

18世紀、水の都ヴェネツィアで作曲家ヴィヴァルディは、孤児を養育するピエタ慈善院で音楽的な才能に秀でた女性だけで構成される「合奏・合唱の娘たち」を指導していた。教え子たちのもとに、ウイーンでの恩師の訃報が届く。ピエタの有力後援者の娘・ヴェロニカから謎の一枚の楽譜探しを依頼されたエミーリアは、音楽に関わる人々の心を浮かび上がらせていく。

まるで18世紀を描いたイタリア文学を翻訳した作品を、読んでいるような空気感までが伝わってきます。ヴィヴァルディの残した足跡を辿っていき、心を開いていたコルティジャーナのクラウディアに映った姿、ヴァイオリニストのアンナ・マリーアから見る姿、ヴェロニカだけに見せた姿などから、ヴィヴァルディの音楽と人間性を深く掘り下げていきます。清貧なピエタの暮らしと音楽を愛する美しい流れも、すばらしいです。弦楽四重奏を聴くような心地よさがあるのです。そして水の都ヴェネツィアを行き来する舟と、歌声、仮面を着けてのカーニバルの華やかで少しだけ怪しさのある文化も、匂い立つようです。仮面舞踏会かオペラを見ているようでもあり、その中にずっと入っていたいと思いました。こういう世界観を持つ作家もいたのですね。

大島真寿美

「かなしみの場所」

子どもだった頃、誘拐されたことがあるらしいというぼんやりとした記憶を持つ果那は、離婚して実家にもどり、雑貨をつくりながら静かな生活をおくる。夫と別れるきっかけとなったある出来事のせいで、自分の家では眠れないのに、なぜか雑貨の卸し先「梅屋」の奥の小部屋では熟睡することができる。梅屋で働くみなみちゃん、どこか浮世離れした両親、賑やかな親戚、そしてずっと昔、私を誘拐したらしい「天使のおじさん」。物語はゆっくりと謎を解いていく。

内面に捕われる果那と、対照的に行動力のあるみなみちゃんの友情が、うらやましいです。無理をせず、静かな時間が積み重なった時、人は動き出し自分と向き合えるのかも知れません。静かに心に染みてくる物語です。いい感性ですね。

大島真寿美

「それでも彼女は歩きつづける」

映画監督・柚木真喜子が海外の映画祭で賞に輝いた。仕事を辞めて柚木と一緒に映画の脚本を書いていた志保。柚木の友人の後輩で、当時柚木の彼氏だった男性を奪い結婚したさつき。地元のラジオ番組の電話取材を受けることになった、年の離れた妹の七恵。柚木が出入りしていた画家の家で、柚木と特別な時間を過ごした亜紀美。息子が柚木に気があると気を揉む、芸能事務所の女社長・登志子。柚木に気に入られ彼女の映画「アコースティック」で主演を演じた十和。

映画監督・柚木に翻弄された6人の女性たちの、それぞれの視点で描いた連作短編小説です。個性的な柚木の姿が、見えてきそうになるとするりと手をすり抜けていき、なかなか全体像が見えてきません。亜紀美の章は、長いセンテンスの文が作る独特の空気感が濃厚に引きつけます。十和のあがきと、書き出した脚本の現実とのリンクの果てがおもしろいです。お酒に酔った後のような、不思議な読後感があります。

大野更紗

「困ってるひと」

ビルマ難民を研究・支援していた大学院生・わたしが、ある日とつぜん原因不明の難病を発症する。検査漬けの日々と、治療方法が見つからない絶壁に立ち、入院システムや暮らすことに立ち向かっていく。「ムーミン谷」のパパとママに助けられ、自らが「難民」となり、日本社会をサバイブするはめになったのだ。

「筋膜炎脂肪織炎症候群」という、病名が付いたからそれでいいということではない難病の手記です。体中の炎症が起きるなんて、わたしには耐えられそうにありません。インフルエンザ並みの発熱と全身の痛みにもかかわらず、必死に実家との行き来や他の専門病院への検査入院したり、行政の膨大な資料と格闘するなど、精神的にも大変です。担当医のネーミングもすてきで、「おしり大虐事件」などと、絶妙なユーモア感覚で笑い飛ばしながらよく書いたものだと唸ってしまいました。病院の医師と入院患者の感情も、行政や高額で理不尽な医療制度への怒りも、すべて吹き飛ばす勢いがあります。言葉のセンスがいいこともあり、いまもまだ、あるいは一生を治療し続ける作者に、心から敬意を表します。ぜひ、購入して読んでほしい本です。

大沼紀子

「ばら色タイムカプセル」

13歳の家出少女・奏(かなで)が自殺のつもりで海に飛び込み、老人ホームの人たちに助けられた。総白髪をいいことに奏は年齢を詐称して働きはじめた。老人ホーム『ラヴィアンローズ』は、オーナーの妹で薔薇が自慢の遥さんや、元クラブのママさんだった登紀子さん、歌舞伎追っかけの3人、コックの田村さんなど、個性あふれる人たちが元気に暮らしていた。13歳では知り得ない「プロの乙女」の世界に引き込まれるが、偶然知り合った中二の和臣と過ごすうち、ホームの不思議と薔薇園に隠された噂を知ることになる。

児童書という枠ではない、ミステリっぽさ、少女と「乙女」の心理とその受け入れる懐の深さに脱帽です。「死」が常に周囲にある暮らしというのが、本来の人間社会だったのだと改めて気づかされました。いまは目に見える形では葬儀参列程度にしか、ない時代です。家族の繋がりも変わってしまっているのです。こういう作家がいたのですね。まだ作品数が少ないですが、活躍してほしいです。

大沼紀子

「ゆくとしくるとし」

大学にも行かず引きこもりがちだったわたしが、年末久しぶりに帰省すると、助産婦の母のそばにオカマのお姉さんがいた。そんな我が家の風景に驚きながらも、明るくたくましいオカマのお姉さんと、母のいつもと変わらぬ懐の深さで、少しずつ自分を見つめていく・・・「ゆくとしくるとし」
僕は、母・ミーナの何番目かの「お父ちゃん」のよんちゃんの言葉に、勇気づけられる。でも、姉ちゃんの言葉が消えた時はショックだった。糸をたどらないと家に帰れないアヤエさんに、パン作りを教わろうとするが・・・「僕らのパレード」

「常識」を押しつけない優しい目線と、でもそのことに責任を持つ姿勢が、2編に共通しています。いろんな束縛から自由になれたらいいなと思いながら、なかなかそれは難しいのですね。ほんの少し、心の中に持てたら社会も生きやすくなるかも知れません。すてきな作家です。

鬼塚忠

「カルテット!」

天性のバイオリンの才能があると音楽教室の先生に認められ、母の期待を背負う中学2年の永江開(カイ)は、勉強もせず反抗期の高校生の美咲と両親と暮らしている。リストラで就職活動中の父・直樹と、パートに出ている母・ひろみの間は離婚寸前だった。そんなとき祖母の誕生会に、家族で演奏会をすることになり、美咲はフルート、父はピアノ、母はチェロで、ばらばらになっている気持ちで果たしてカルテットはできるのか・・・。

仲のいい家族が存在しているのか、最近はとても判断が難しいところです。なんとか家族の再生をしたいと願う開の気持ちが、かろうじて物語を成立させています。4人の視点に都合よく移動させ、説明が多く、書き込んでいない印象です。「悲しい」と文章で書いて、読者に悲しさが伝わるわけではありません。音楽一家でありながら、誰からも音楽を演奏する感情や熱い思いが伝わってきません。演奏をしたことのない作者が想像できる範囲で書いているのでしょう。題材がおもしろいのに残念です。

岡田潤

「こども電車」

こども電車はこどもの夢や希望を運ぶ電車だ。こどもならだれでも乗れるはずなのに、いつしか乗れなくなる子がでる。本当の自分をいつわっている子、心に傷を負っている子・・・。こども電車は今日も走り続け、乗客を待っている。

いじめや病気などを子どもがどう考えるのか、小5の設定としては気づかせる展開がいいです。ただ、キャラが描き分けられていないのと、お決まりのハッピー・エンドはもったいない気がします。

荻原 浩

【コールドゲーム】

高校3年の光也は、甲子園の予選負けで野球部をやめたが、進学の決心もつかず親に責められている。ヤクザを目指している、幼なじみの亮太に呼び出された。中2時代のクラスメートが襲われて大怪我をしたという。しかも、かつてイジメの標的だった廣吉からの犯行予告が入り、連続して事件が起きていると。イジメを話したくもなく、警察を信用してもいない光也たちは廣吉を探し、犯行を止めようとする。だがついに殺人事件が起きる。

高校生群像をじつにうまく描いている作家です。ホラーっぽさにも、嫌な感覚がないのは、ひとりひとりの心理まで目が行き届いているからでしょう。どこにでもいる高校生なのです。かつてのイジメを、どう考えるのか。重い過去から逃げずに、立ち向かうところが共感を呼びます。何作か、読んでみたい作家です。
それにしても、現実の復讐事件を思うと、考え込まざるを得ません。

荻原 浩

【ハードボイルド・エッグ】

探偵業・最上は、犬や猫の捜索依頼でかろうじて生きていた。体裁を整えようと秘書を募集すると、80歳を超えている片桐綾が強引に押し掛けてくる。そこへ会社経営をしているという男から、犬を探してほしいと電話が入る。綾と一緒に森を探すうち喉を噛み切られた、男の死体を発見してしまう。しかも最上が惹かれている、柴原アニマルホームの翔子の父親だった。

綾の奇妙な存在感が、いい味を出しています。スナック「J」のマスター、ホームレスのゲンさんや、情けない男の描き方も、いいです。ドタバタでありながら、人間の哀しみがかすかに伝わってきました。荻原さんのよさが出ている感じがします。

荻原 浩

【神様からひと言】

新製品決裁会議のプレゼンで、大失敗をした涼平はタマちゃんラーメン・玉川食品の島流しと呼ばれる「お客様相談室」へ飛ばされた。同棲相手のリンコに出て行かれ家賃を払わなくてはならず、ギターの借金もあり、辞めるわけにいかなかった。海千山千の室長や、ほかの社員の様子にため息をつき、お客からの苦情電話を受け、ひたすら頭を下げるのが仕事だった。そこへ社長秘書だった宍戸が、配転されてくる。ただ美人なだけではなかった。

プレゼンの出だしで、時代遅れな会社の体質やどうしようもない役員を、描き出してみせてくれます。会社の嫌なところが強調され、わずかな希望が見えてくる頃には、すっかり涼平に共感させられています。キャラが、微妙な塑像ですね。漫画チックなストーリーなのにのめり込まず、どこかに冷静な作者の距離感の取り方が感じられます。小説としてのおもしろさを知っていて書いているプロ。そんな印象が残ります。

荻原 浩

【噂】

「レインマンが女の子をさらっていって、足首を切っちゃう。でもミリエルをつけると襲われない」渋谷の女子高生の間で、しきりに噂されていた。企画会社コムサイトの、新ブランドの香水を売り出す作戦だった。社長・杖村沙耶の発想は、みごとに当たった。

小暮刑事は高学生の娘との二人暮らしで、弁当作りでささやかな繋がりを保っている。目黒区の緑地帯で、足首を着られた少女の死体が発見される。小暮は新任の名島警部補とチームを組んで捜査を開始する。

女子高校生のキャラや、会話や、関係を描くのがうまいですね。中年の刑事の書き方が少し類型的な匂いがして残念ですが、伏線もしっかり張ってあり最後のオチまでおもしろいです。初期のころの作品らしく、多少の説明し過ぎのもたつき感が気になります。分野の違う作品を書ける作家のようです。何作か読んで、原点を掴んでみたいと思います。

荻原 浩

【誘拐ラプソディー】

勤めていた工務店の社長を殴り、車を奪って逃げた伊達秀吉は、金も底をつき自殺しようとあれこれやってみるが、死ぬこともできない情けなさだった。偶然拾った伝助はどうやら金持ちの家の子どもらしかった。かつて刑務所で一緒だった男から教わったノウハウで、誘拐で身代金をせしめることを思いついた。だが、警察とヤクザに追われるハメになった。

前に読んだことがあると、思いながら読みました。雑誌に連載中を読んで、細切れに苛立って途中で止めた本でした。情けない男や子どもを描くのが、うまいですね。他のキャラがどうも類型的な気がします。ちょっとドタバタ調が、わたしは好きじゃないのかも知れません。ミステリー分野に、絞ってみようかと思います。

荻原 浩

【オロロ畑でつかまえて】

奥羽山脈の山麓に位置する大穴村は、御輿の担ぎ手も不足する過疎の村。以前東京にいた慎一たち青年会の8人は、村おこしキャンペーンを広告代理店に依頼することにした。大手の代理店からは門前払いをかけられ、倒産寸前の広告会社がアコギな作戦を持ちかけてくる。龍神沼に「ウッシー」が出現したというニュースに、マスコミが押し掛けてきた。

過疎の村の人間と、東京のマスメディアとのミスマッチ。設定キャラに、思わず苦笑してしまいます。ドタバタ喜劇をやって、新人賞を取っていたとは、荻原さんのしたたかな作家の顔を見たような気がします。あほらしいのに踊ってしまわないのは、構築がちゃんとあるからでしょう。たぶん、この作品だけからは、荻原さんの全体は見えないでしょう。

大村あつし

「無限ループ」

プログラマーの西城誠二は不思議な女子高生ヨーコから、全財産をはたいて奇妙な買い物をする。シルバーボックスに手を当て、恨んでいる上司の顔を思い浮かべると、瞬時にその上司の財産の現金が押入れに現れた。怒り度に比例した公平な、しかも相手にばれることのない完璧な復讐が可能と知った西城は、仕事を辞め次第に暴走するが・・・。

着想のおもしろさを最大限広げた展開は、楽しめるけれど苦笑させられます。狭い範囲の世界で生きている作者には、限界があります。偶然と都合の良い人物を登場させても、地に足がついていません。書こうとする熱意だけは買いますが。

今子正義

「モラルリスク常習者たち」

保険調査事務所のベテラン・鷹野は、生命保険や損害保険の請求が出た際、事実確認をする仕事を請け負っていた。事故の詐称や微妙なものが多かった。映画監督が交通事故で片目を損傷したという。すぐにでも保険金を支払わなければないが、次の映画製作に膨大な資金を必要としていたという、背景があった。裏付け調査を進める鷹野の前に、見えたものとは。

小説風にしたノン・フィクションといった印象が強いです。お金のためにそこまでやるのかという、常習者たちの行為には驚かされます。闇金から生命保険で払わされることがあるだけではなく、自らの強い意思で自傷しながら事故を装うなど、専門家ならではの考察が見えます。物語としてのおもしろさはあまりありませんが、「支払った保険料を返せ」という言葉など妙に説得力があります。

あさのあつこ

【福音の少年】

永見明帆(あきほ)は16歳。図書室で同級生の藍子とキスしているところを、柏木陽に見られた。彼を明帆は自分と同じ、熱くならない空気を持つ人間だと直感していた。ピアノのバイトで帰宅が遅いと、藍子の母が心配して明帆に相談した。うすうす感じていることを決して口にはしなかった。そんなとき陽が家出をして、父と二人暮らしの明帆の家へ泊まりにきた。その夜、陽のアパートが全焼し、陽の両親や藍子を含む9人が焼死した。事故ではないと、調べる明帆と陽の周囲に、怪しい陰が忍び寄ってくる。

あさのさん、うまいですね。こんな小説が書けるんだと、驚きでした。ミステリーとしてもおもしろいし、少年二人と少女が心に抱える、闇の描き方がぞくぞくさせてくれます。少年や少女から、青年へと変わろうとしている、美しい時期の像に、ため息です。

あさのあつこ

【バッテリー I 】

父・広の左遷で、両親の生まれ故郷に引っ越した巧たち家族は、それぞれに複雑な心を抱えている。巧は、春休みが終わると中学生になる。野球部の天才ピッチャーとしての、自信があった。小学生の弟・青波は気弱で病弱だった。母・真紀子の父もかつては名ピッチャーだったという。

同級生の豪が、バッテリーを組みたいと言い出す。本気のボールが、わずか5本目でミットに収まった。豪には人を引きつける魅力があった。

最初は児童書として出た作品のようです。素直。みんながいい人という設定や、かみくだくような文章からもそれは感じるのですが、ひた向きな野球への熱い思いが、気持ちよく描かれています。キャラ的には、そんなに個性的ではないし、帯のキャッチほど自信過剰なわけでもありません。読後感のさわやかさが、好感度高いです。次を読むかどうかは、微妙です。食い足りない感じはどうしても残ります。

あさのあつこ

【バッテリー II 】【バッテリー III 】

最強のバッテリーの巧と豪は、中学に入った。だが、待ち受けていたのは服装検査に現れている学校の徹底した管理体制だった。野球部でさえ、流れ作業のように部活をこなす先輩部員たち。部員や監督に歯向かい、巧は自分の野球を貫こうとする。回りとの軋轢、豪でさえどこまで付いていくか戸惑う。うまいピッチャーゆえに、引き起こすトラブル。ついに、集団リンチに遭う。

事件を乗り越え、なんとか野球を続けようとする。家族や豪たちと、心が交差し、感情の始末のつけ方も学んでいく巧。

「バッテリー I」のあと、続きを読むかどうか迷いましたが、読んでよかったと思いました。わかっていても素直に言葉にできない少年期の心が、うまく描かれています。もっとも、少年の経験のない今のわたしから見てのことですが。このシリーズはまだ続くのでしょうか。成長していく姿が楽しみだったりします。なま暖かい、涙がしっとりと沁みてくる感じがします。

あさのあつこ

【バッテリー IV】

新田東中学野球部のピッチャー・巧とキャッチャー・豪は、キャプテン・海音寺が申し込んだ、横手中との練習試合に出た。横手中の門脇は、巧の球をどうしても打ちたかった。だが、豪は巧の球を受け止められなかった。手が痛かった。そしてバッテリーの間に、深い溝ができた。

待っていた、あさのさんの文庫です。キャッチャー・豪の心の痛みが伝わってきます。100の言葉が心の中にあるのに、口にしたり態度に表すことのできない、巧たちのもどかしさ。あさのさんは、中学生という一瞬の時期を、うまく捉えています。なんとか相手の心に届かせようとする、ひた向きさが読後感をさわやかにしてくれます。

あさのあつこ

【バッテリー V】

巧と豪のバッテリーが、復活した。だが監督のオトムライは、巧の投球に危惧を抱いた。海音寺も、力が付き過ぎてコントロールを失っているのではないかと、感じていた。ライバルの横手中のメンバーも、巧たちの動きに敏感になっていた。

シリーズ「V」まできましたが、どうにもまどろっこしい感じが強くなってきました。まとめて読みたいのです。何作まで続くのか、わかりませんが、小分けはどうも苦手みたいです。

あさのあつこ

【バッテリー Vl】

新田東中の巧と豪たちは、横手二中との再試合のために練習を重ねていた。吉貞が巧に、豪でなくても投げられるかと聞いた。豪もまた「俺でなくても」と聞く。自分の中の答えを探す巧。

終巻ということで、読みました。まとめたかったのだと思いますが、連作の難しさでしょうか、登場人物がどうしても前作の繰り返しになります。それでいて逆に、ずっと続いていたひりひり感が消えてしまいました。ハッピーエンドは仕方がないのかも知れませんが、もう少し危うさを残してほしかったです。

あさのあつこ

【The MANZAI (ザ マンザイ)1】

転校してきたばかりの中学2年・瀬田歩は、お好み焼き屋の秋本貴史から漫才コンビを組もうと、申し込まれる。歩は中1のときの不登校なり、そこに端を発した交通事故で、父と姉が亡くなっていた。愛犬も死んだ。なんとか登校するようになったが、心の傷は深い。秋本のキャラに救われる気もした。
文化祭で「ロミオとジュリエット」をやることになる。

クラスの中での人間関係というのは、思い出しても難しい世界です。歩がとけ込んでいく過程が、そして心を開いていく自然なきっかけと、いい友人との出会いが軽いタッチで描かれていきます。丁寧な描写は、好感度高いです。ちょっとだけ、でき過ぎの感じもあるといえばあるのですが。

あさのあつこ

【The MANZAI (ザ マンザイ)2】

14歳。中学生の瀬田歩は、秋本貴史から、町内の夏祭りに漫才をやろうと言われても、断り続けていた。1年前事故で父と姉を失い、母もケ−キ作りを始め、ようやく立ち直ろうとしていた。歩の友人の秋本やメグや森口たちを、母は目を細めてながめている。歩のメグへの片思いと、メグの秋本への思いなどが入り組んだ関係が、ひとつの事件で 変わっていく。メグの靴箱に、カエルが入れられた。そして影のような木菅が、気にかかる。

傷つきやすく、それでいて体の中に抱える力を持て余している時代の、中学生がやっぱりうまく書ける作家だと思います。タッチは軽いけれど、なにげなく流れる日常と、背中合わせの世界との、境界線を目をそらさずに見つめています。「暴力を振るいたいと思うことと、実行することとは別」。書くことで、人間を信じたいと思っているのかも知れません。後味が悪くならないのは、その辺りでしょうか。

あさのあつこ

【The MANZAI (ザ マンザイ)3】

夏祭りで再び漫才をやろうと、秋本貴史は瀬田歩に迫る。そんなある夜、高熱を出した歩が病院に行くと、看護士や商店街の親父さんにまで、1年前の文化祭で「ロミオとジュリエット」を漫才でやったのをほめられ、逃げ出したい気分になってしまった。病院の廊下であこがれのメグ・萩本恵菜が暗い顔をしているのを見かける。

シリーズ3作目です。このシリーズは好きです。軽いジョークの会話のやりとりで、歩を中心にひとりひとりの内面をうまく処理して描いています。特別に才能もない、平凡な中学生の像が好印象です。

あさのあつこ

【The MANZAI (ザ マンザイ)4】

「ロミジュリ」漫才コンビの秋本と歩は、商店街の夏祭りで漫才をした。歩は何もかもだめにしてしまったと、落ち込んでしまう。そんな歩にメグが相談があると言う。

軽くさわやかな印象を残してくれるのが、うまいです。ただ、成長した歩を書きたかったのだろうと思いますが、歩の心境をいちいち説明しているあたりが煩わしかったかも知れません。読者が感じ取ればいいことだと思います。「3」からストーリーはほとんど進んでいないので、「5」の展開を期待しています、あさのさん。

麻見和史

「真夜中のタランテラ」

公園で両足を切断された女性の死体と、近くで赤いダンス靴をつけた義足が発見された。猟奇的な犯人なのか。「仲井義肢」の看板とも言える、義足のダンサー・志摩子の義足を製作もしていた。営業の徹は、病院の医師とともに患者に最適の義肢を作ろうとしている。志摩子殺人事件は、会社を潰すことが目的なのか。兄のように頼りにしている、再生医療の研究をしている鴇(とき)や、義足ユーザーの妹の奈緒と一緒に、事件の解明に乗り出す。だが今度は奈緒が誘拐されてしまう。

童話「赤い靴」の怖さとともに、進行していく展開に引込まれてしまいました。義足の仕組みとユーザーの心理も初めて知りました。ホラーかと思わせるほどの、そくぞくとした怖さがあるものの、描かれている人間像はごく普通の生活者です。うまくバランスを取っていると思います。そして捻りのあるラストもなかなかです。ただ、最後に犯人の側の視点での説明は、蛇足かも知れません。全体の中に書き込むべきだったと思います。

麻見和史

「ヴェリサリウスの柩」

大学医学部の解剖実習で、遺体の体内からチューブ状の異物が見つかった。手術の際の置き忘れ事故だろうか。助手の千紗都は、チューブの中からメモを発見する。それは園部教授への警告状だった。次にはネズミの集団にその 遺体が食い荒らされ、更に下半身を切断されているという、事件が発生した。だが警察には届けず千紗都は気になり、調べることにした。だがついに殺人事件が発生してしまう。

献体の裏側や医学部への下調べはしっかりしてあるのだが、教授の人間像に奥行きがなさ過ぎます。もっとも広げると医学部そのものへの膨大な切り込みが必要になってしまうのでしょう。警告のメモを布石に、戦前の地下研究室まで、なかなかうまく処理をしていると思います。類型的な人間像や、作品の浅さが加わり、現実感のないストーリーになってしまい残念です。

蒼井上鷹

「出られない五人」

愛すべき酔いどれ作家・アール柱野を偲び一晩語り明かそうと、彼のなじみの店だったビル地下の閉店したバー・ざばずばに、特別の計らいで鍵を開けてもらって男女5人が集まった。だが、段ボールの山から身元不明の死体が転がり出たことから、5人は互いに疑心暗鬼にさいなまれる。殺人犯がこの中にいるのか。翌朝まで鍵をかけられ外に出られない密室の中、緊張感は高まっていく。しかし5人には、それぞれ出るに出られぬ理由があった。

登場人物たちの秘密と誤解、それにちょっとした偶然が重なって、事件はとんでもない方向へ転がっていきます。アール柱野は、亡くなったある作家を連想させます。楽しんで読める、軽いミステリーという感じでしょう。これはなかなかうまい作品ですね。

蒼井上鷹

「ハンプティ・ダンプティは塀の中」

思わぬことで第一留置室の新入りとなった和井は、そこで4人の先客と出会う。留置場という設定は、拘置所や刑務所と違い、塀の中だが比較的自由がきく場所だ。だが、それぞれが抱えているものは人に話せるものばかりではない。和井は、バイト先のママさんが車に轢かれた話をした。警察では、風の強い道をふらついて歩いたママが、配達のワゴン車とぶつかったと判断した。だが、店に戻ってみるとママの飲み残しのウイスキーグラスで水を飲んだ猫が、死んでいた。そのとき話していた客が毒を入れたのではないかと、俄に怖くなった。留置室のそれぞれが推理して見せる。

塀の中という非日常の中で繰り広げられる、日常ミステリという設定がおもしろいです。キャラも個性的で存在感があります。少し強引な推理展開という印象もありますが、悪くはありません。軽い推理を楽しむには充分ですが、本格的とまではいかないのが惜しいです。

蒼井上鷹

「九杯目には早すぎる」

古書店の店主・蓑田は、一緒にくらいている明美から頼まれて、友人の夫の素行調査をすることになった。だがなぜか毎回うまくいかないのだ。きょうも、そっと後から入った寿司屋で、男は「寿司と茶碗蒸しのかき回し丼」を食べ、職人に店からたたき出された。騒動にあっけに取られているうち、尾行をまかれてしまった。

短編集です。キレのあるブラックな作品です。きっかけを忘れてしまうほどの、なにげない日常から一歩踏み外して、どんどん悪い方向に狂い始めていく白昼夢のようです。登場する人たちも、なかなかアクが強く、うまい作家です。好き嫌いが別れそうな、微妙な作品だと思います。

蒼井上鷹

「ホームズのいない町」

「第二の空き地の冒険」など短編七編と、関連する掌編が六編です。ホームズもののタイトルをもじった通り探偵は不在なので、それぞれの話の登場人物が勝手に推測し、進めていきます。各編が少しずつ微妙にリンクしながら、ラストに向けて収斂されていきます。いろんな視点から描かれていて、人々の思惑が幾重にも錯綜していき、最後の結末に収斂します。うまい構成だと思いました。

伊岡瞬

「145gの孤独」

デッドボール事故が原因で現役を引退した、元プロ野球投手だった倉沢修介は、便利屋の仕事を始めた。手伝うのは、傷つけた相手の西野とその妹・春香だが、西野はほとんど仕事らしいことをせず、春香は事務処理をしてくれるものの嫌味ばかり言っていた。ある日、広瀬碧から息子・優介のサッカー観戦に付き添ってほしいという「付き添い屋」の依頼があった。優介は競技中に抜け出して、隠れて勉強をするという屈託のある子どもだった。

華やかな世界から落ちた倉沢の屈折した心が、読んでいて嫌だなという描き方です。その倉沢の視点から見える仕事は、どうにも気が乗らず、会話も読み取りずらいのです。ただ、何かありそうという期待で最後まで読みました。ラスト近くのどんでん返しも、決まらずに不完全燃焼な印象です。ラストは解説をし過ぎて興ざめでした。題材としてはおもしろいのに惜しいですね。

絲山秋子

「ダーティ・ワーク」

寡黙な熊井望は、男のような名前を嫌っている。いまでも分かれたTTを忘れられない。それでもステージでは、かわらずに愛用のギターを弾いている。健康診断で心臓の再検査を言われ、初めて自分が死んだらどうなるか考えた。
遠井は大学時代の恋人・美雪から、入院見舞いにきてほしいというメールを受け取った。激しい痛みに苦しみ、安楽死を医師に交渉してくれと言う。

熊井の男言葉と思考回路が、ひりひりと心に痛いです。ばらばらの各章の登場人物が、すとんと繋がっていきます。ラストのシーンは妥当だと思い、ほっとする反面、気持ちのどこかに別な選択をしてほしいものがありました。各章のタイトルの曲名を知っていたら、読者としてはひと味違ったかも知れず残念です。

朝倉卓弥

【四日間の奇蹟】

知的障害のある千織は、なぜかピアノの才能があった。保護者としての如月はかつてピアノ界のトップにいた。悲惨な事故で左手薬指を失うまでは。事故の原因の一端は千織の両親が引き起こしたものだった。付き添いをして、施設を訪問していながら、如月の胸の内は苦渋に満ちていた。

その日も山奥の診療所で、演奏をする予定だった。世話好きなスタッフ・真理子の案内に、千織はいつもの臆病さも見せず、如月もまたくつろいでいた。倉野医師に、千織の症例の説明をしてもらった。

病院から飛び立とうとしたヘリコプターが、落雷に当たる。爆発から千織を守ろうと真理子は覆いかぶさった。その時、奇蹟が起こった。

ピアノに造詣の深い作家らしく、音楽的に心地よい描き方でした。説明が冗長なところもあるけれど、ちゃんと最後まで引き込んで読ませてくれました。生きることに、希望はある・・・そんな後味のよさを残した、ファンタジーです。

雨森零

【首飾り】

僕・れいは小さな山村「虹沢」で8歳からおばあちゃんと住んでいた。感情をまっすぐにぶつけてくる強い目の光の少年・秋に、初対面から惹かれてしまう。秋にいじめられてばかりいる少女・ななは大きな目で淡い印象なのに、不思議に秋に似ていた。

僕達はいつも一緒だった。沢で釣った魚を焼いて食べ、カエルを花火で吹き飛ばす。フクロウを見に行き、ヒナのため襲いかかったフクロウに秋は傷つき、僕はフクロウをつかんだまま樹から落ちる。中学に通い出した頃、僕たちは身長ののびだけではない体の変化に気づく。少年や少女からの、大きな成長を迎える。そしてある嵐の夜...。

こんなにもせつない感情を描いた作品が、日本にもあったのですね。山や川などがいきづき背景だけに終わっていません。それらを体に感じながら、感情や体を見つめ成長していく通過点が、とても美しいと思います。

決して戻ることもできない、危うい時期。わたしはどんなふうだっただろう。こんなふうに見つめて書けるだろうか。作者の雨森さんは、きっと書けるようになるまで胸の中にずっと火 を静かに燃やしてきたのでしょう。

また作品の中の母親の不在。これも少年たちの美しさを増している要素かも知れません。
これは是非お勧めです。ずっとこころに残ると思います。

姉小路祐

【適法犯罪】

マルチ商法まがいの「エラボレートクラブ」は化粧品から健康食品まで扱い、猫田健次は友人の真奈がお金を注ぎ込んでいるのを知った。
真奈の母親からの依頼で、やめさせようとする。だが、会長のような美人になり、階級が上がると収入が増えると思っている真奈は、言うことを聞かない。クレジットカードで買い物を繰り返す純子は、カード地獄にはまりこんでいく。

宮部みゆきさんの「火車」ほか、同じ題材でたくさんの作品があります。姉小路さんのは、関西弁の猫田がとぼけた味を出していて、読ませてくれます。ただ、説明調になる部分が多いので、小説としてのおもしろさには、欠けるかも知れません。時間を持てあましたときには、楽しめます。

石崎幸二

「日曜日の沈黙」

高原ホテル美和「ミステリィの館」にモニターとして招待された、ミリアとユリは高校の部活動と称して、参加していた。バスでたまたま一緒になった石崎に、ちゃっかり荷物を持たせて気楽に楽しもうという魂胆だった。モニターにはミステリー作家・那賀や評論家、大学生が参加していた。作家の故・来木来人の資料館を兼ねる館で、未発表資料を探すことになるが、一行の中の一人がクロワッサンの毒で倒れる。二人目は、厨房で炎に包まれ、三人目は浴槽でおぼれた。次の標的は誰か。

殺人イベントを通して、モニターに課せられた真の目的を探させるという趣向です。本のタイトルや殺人手段を、分析していく高校生と石崎の軽いノリを、楽しめる本です。キャラとしては個性が、いまひとつなのが残念です。

井上夢人

「ラバー・ソウル」

鈴木誠は、容貌へのコンプレックスから豊かな部屋に引きこもっていた。洋楽専門誌にビートルズの評論を書くことだけが、社会との繋がりだった。帽子、マスク、メガネのフル装備で撮影現場に出た鈴木誠は、無縁だった美しいモデルに心を奪われた。偶然の積み重なりは、鈴木の車の助手席に美縞絵里を座らせる。悲劇は始まった。

裕福な家庭の男の、引きこもりと連続殺人事件と言えばよくある事件と言えそうです。鈴木誠の取り調べのシーンから始まり、執事や被害者、出版社関係者などの証言で構成されています。途中で真相が見えそうな伏線を張りながら、読者をミスリードさせていく強い作者の意思を感じます。今の見た目で判断される社会と、その中で生きていくことの絶望と希望が哀しく心に残ります。井上さんらしい、論理的整合性重視の思考回路は好きですが、どこかで突き抜けてほしいというのは読者のわがままですね。

井上夢人

【 もつれっぱなし】

「宇宙人の証明」「四十四年後の証明」など、会話だけで進む、6編の短編集です。新刊で読んでいますが、10年たってどんな印象を受けるのか、気になって読みました。やっぱり井上さんの言葉の世界は、しっかりしていますね。軽々と描き切っています。言葉で伝えることの、なんというもどかしさか。人間の存在の危うさと、ちょっぴりの哀しみがいい感じです。

井上夢人

【 TEAM ザ・チーム 】

TVの高視聴率を上げている「霊導師・能城あや子」は、彼女のカリスマ性と、鳴滝と賢一、そして悠美の徹底したフォローで、成り立っていた。次の収録の相談者・桂山博史は、『超能力、心霊現象などの告発サイト』を展開していた。調査すると、インチキ芸能記者と接触があった。また妹が数年前、飛び降り自殺をしていた。それを元に、能城あや子は持ち込んだ『心霊写真』を作成されたものと言い、妹の死の謎を解き明かしていまい、マスコミのハイライトを浴びることになった。・・・「招霊 おがたま」

数年ぶりの井上さんの、8編の連作短編集です。あいかわらずパソコン好きなのね、という描写が随所にあります。それが嫌みにならないのは、小説を楽しんで書いているのが伝わってくるからでしょう。肩の力の抜けた、それでいてちゃんと芯のある姿勢は、好感が持てます。そろそろ本格派も書くらしいので、楽しみです。

井上夢人

「魔法使いの弟子たち」

山梨県内で致死率百パーセント近い新感染症「竜脳炎」が発生した。発生当初の感染者で意識が戻ったのは、ジャーナリストの仲屋京介、めぐみ、興津老人の3名だけだった。彼らのウィルスから有効なワクチンが作られ、拡大を防いだ。その後も病院内での隔離生活を続ける彼らは、「後遺症」として京介は過去と未来を透視できる、めぐみは物体を動かし空を飛ぶ、興津はどんどん若返っていく不思議な能力を身につけていた。その力を自分でコントロールできるようになったが、興津老人には別な能力も表れ事件が起きる。

出だしはウィルス・パニックものですが、次第に爆発的に発揮される特殊能力がSFストーリー展開となり、一気に読ませるおもしろさでした。ただ9年ぶりの長編で、広げ過ぎた奇想天外な話をどこに着地させるのか、心配しながら読みました。もちろん上手く収めましたが、作者ならもう少し違ったラストにもできたのではないかと、読者の欲張りな要望からは少し残念なところもあります。特別な能力を持った人間としての内面が描かれて、孤独さや辛さが伝わってきます。その描き方はSFではなく、やはりミステリです。「岡島二人」から読んできた好きな作家ですし、次作も読むことになると思います。オンラインノベルも気になるのですが、そちらは書籍化したら読みたいですね。

井上夢人

「あわせ鏡に飛び込んで」

瞬間接着剤で男をつなぎとめようとする女・・「あなたをはなさない」
悩み相談の手紙だけで構成された・・「書かれなかった手紙」
留守番電話が男を追い詰める・・「さよならの転送」
2台のパソコンが会話する・・「ジェイとアイとJI」
幻の名作・・「あわせ鏡に飛び込んで」

10編の短編集です。1973年「岡島二人」を解消し、井上夢人として書いた頃からの作品です。発行された本で読んだ記憶があるものが、いくつかありました。時代的な背景の違いがあるのですが、それを超えた魅力があります。携帯電話もネット環境もまだ始まったばかりの頃、こんな落とし穴がありそうという、捻った怖さ、そういう意味ではいつの時代にも通じる怖さです。寡作な作家が、大切にこだわってきた作風はとても引きつけられます。いま同じ題材を、作者が書くとどんな怖いものになるのか、想像してみます。

池井戸 潤

「ロスジェネの逆襲」

実力とは無縁な、理不尽な人事評価が通用する銀行で、半沢直樹が出向させられた、銀行の系列子会社東京セントラル証券の業績は鳴かず飛ばずだった。出向社員と正規社員との軋轢もある。そこにIT企業の雄、電脳雑伎集団社長から、ライバルの東京スパイラルを買収したいと相談を受ける。アドバイザーの座に就けば、巨額の手数料が転がり込んでくるビッグチャンスだ。ところが、そこに親会社である東京中央銀行から理不尽な横槍が入る。責任を問われて窮地に陥った主人公の半沢直樹は、部下の森山雅弘とともに、周囲をアッといわせる秘策に出た。

企業買収と大規模融資のセットで、大きな利益が出る仕組みが実にわかりやすいです。IT企業の社長それぞれの性格の違いも、経営の意志の高さの違い、合併後の事業方針にまで見通しての、壮大な逆転劇です。「人事が怖くてサラリーマンが勤まるか。仕事は客のためにするもんだ。ひいては世の中のためにする。その大原則を忘れたとき、人は自分のためだけに仕事をするようになる。身勝手な都合で醜く歪み、そういう人間が増えれば組織が腐り、世の中が腐ってゆく」そんなスカッとする台詞を言ってみたいものですね。常に上司の背中を見て仕事をせざるを得ない、いまの会社員の内に秘めた思いを代弁するから、強い共感を得られるのでしょう。

池井戸潤

「オレたち花のバブル組」

東京中央銀行営業第二部次長の半沢は、巨額損失を出した老舗のホテルの再建を押し付けられる。おまけに、近々、金融庁検査が入るという噂がある。金融庁には、史上最強の「ボスキャラ」が、手ぐすねひいて待ち構えている。一方、出向先で、執拗ないびりにあう近藤。また、精神のバランスを崩してしまうのか。空前絶後の貧乏くじをひいた男たち。そのはずれくじを当りに変えるのは自分次第。絶対に負けられない男たちの闘い。

ドラマがおもしろく、しばらく離れていた作家ですが読んでみました。しっかりとテンポのいいストリー展開と、一人一人の銀行マンとしての悩みと葛藤、人間関係、情報網が巧みに組み合わされています。ついドラマの俳優を思い浮かべてしまいますが、ドラマはより鋭角的に切り取っているし、作品は作品として成功しています。大きくなった作家をまた読めるのはうれしいです。

池井戸潤

「シャイロックの子供たち」

ある町の銀行の支店で現金紛失事件が起こった。女子行員に疑いがかかるが、別の男が失踪する。「たたき上げ」乙採用(高卒)の副支店長の誇り、格差のある社内恋愛、家族への思い、上らない成績。事件の裏に透ける行員たちの人間的葛藤。銀行という組織を通して、普通に働き、普通に暮すことの幸福と困難さを描く。

副支店長の必死に成績を上げようと部下を叱咤するシーンは、危ういです。現金紛失を数人で穴埋めするという、規定違反をせざるを得ない立場に立ってしまいます。どうしても新規顧客を取れない行員が、ついに大口の融資を決めてきます。ハイになる行員と一緒に会社を訪れた上司が見たのは、悲惨なものでした。一人一人を丹念に描くと、読みながら気持ちが暗くなります。銀行員になどなるもんじゃないなと、作者の意図とは違う感想を持ってしまいます。どんな会社でも同じことがあります。日本の経済を支える大組織の銀行ならではの、悲哀と喜びが入り交じります。

池井戸潤

「最終退行」

都市銀行の中でも「負け組」といわれる東京第一銀行の副支店長・蓮沼鶏二は、締め付けを図る本部と、不況に苦しむ取引先や現場行員との板挟みに遭っていた。一方、かつての頭取はバブル期の放漫経営の責任をもとらず会長として院政を敷き、なおも私腹を肥やそうとしている。リストラされた行員が意趣返しに罠を仕掛けるが、蓮沼はその攻防から大がかりな不正の匂いをかぎつけ、ついに反旗を翻す。

蓮沼は毎日のように遅くまで残業し、最後に支店を出る「最終退行」の常連です。公的資金に頼りながら、なおも会長として院政を敷く元頭取、その会長に策謀を巡らすリストラに遭った行員との攻防が、明確になります。ストーリーの構成が若干、類型的な面はありますが、現場の行員の苦悩が深く描かれています。作品での本筋ではありませんが、ほとんど父親がいない家庭がどれほど家族に取って過酷なことかと思いました。まだエリート行員の範疇ですら、日本の滅私奉公的な労働の実態を見せます。

池井戸潤

「株価暴落」

巨大スーパー・一風堂を連続爆破事件が襲った。企業テロを示唆する犯行声明に株価は暴落、一風堂の巨額支援要請をめぐって、白水銀行審査部の板東は企画部の二戸と対立する。一方、警視庁の野猿刑事にかかったタレコミ電話で犯人と目された男・犬鳴黄の父は、一風堂の強引な出店で自殺に追いこまれていた。

この作品から、銀行内部を描くことの方が、殺人事件よりミステリアスだと作者が目覚めた気がします。融資金の裏を見つめる視点が、より深くなったと思います。警察の追う犯人と、銀行内の「悪人」とが浮かび上がります。企業と銀行が株価で同じく負債を抱え込み、少ないリスクを取る銀行の融資見送りと、企業の倒産が決定的になります。けれど銀行にも企業にも、裏金の暗躍があるのです。しっかり見据えた作品です。

池井戸潤

【果つる底なき】

二都銀行の融資課回収担当の坂本が、蜂のアレルギーショック死をした。事故死か。恨みによる他殺か。警察が動き出す中、伊木は坂本の最後の「これは貸しだからな」という言葉が、気になっていた。銀行内部では、坂本の不正送金も発覚する。伊木が、坂本のノートパソコンのスケジュール帳を調べていくと「109」へ行く予定が最後になっていた。だが、不良債権の顧客にその名はなかった。

支店長や上層部からの圧力。複雑な駆け引きまで、さばき方がうまい作家ですね。文章も、無駄がなく、説得力があります。銀行ものは、いままでもかなり読みましたが、零細企業との関わりの部分での小説では、群を抜いてうまいです。元銀行員の経歴が、ミステリーに結実しています。ただ、ほかにどんな物を書けるのか、何作か読んでみようと思います。

池井戸 潤

【銀行狐】

破綻して閉店になった銀行の金庫室から、他殺体が発見される。スペアキイが使われていることから、銀行内部説が浮かんだ。身元は、2億円の預金を持つ71歳の女性だった。だが、預金はすでに引き出されていた。「金庫室の死体」

池井戸さんの2作目は、5作の短編です。どれも、なかなか推敲されていますね。ATMの仕組みの裏側などに興味を引かれました。スケールの小ささが、気になります。3作目の長編に期待したい です。

池井戸 潤

【架空通貨】

かつて商社マンだった辛島は、ようやく仕事を得た女子高で教師をしていた。生徒の黒沢麻紀から、父の会社が破綻したことを聞いた。なんとか資金のめどを立てようとする麻紀に、力を貸そうとする。黒沢金属工業が引き受けていた、社債の相手先・田神亜鉛を訪れる。その街は、田神亜鉛という会社に経済を支えられた、特別な場所だった。そこで流通している商品券・田神札。銀行や不動産業者や、コンサルティングの加賀という女性。すべてが絡んで、複雑な思惑がいまにも爆発 寸前だった。

非鉄金属という材料の扱いも、流通貨幣もおもしろいです。ラストの盛り上げも、定石でしょう。辛島先生は、仕事をしなくていいのかという、突っ込みをさて置いて。気になるのは池井戸さんの底に流れる、数字で考えるための「何かの不在」です。決して熱くならない作家だと、感じます。うまいけれど、ハマりきれないのは、その辺りでしょうか。

池井戸 潤

【MIST】

紫野派出所勤務の五郎は、宿屋かりんの女将から心配な客が泊まっていると聞かされる。のんびりした土地ではあったが、警戒することにした。そこへ間宮産業社長が農薬を飲み、喉を掻き切ったと知らせが入る。自殺か、他殺か。

通勤で本を持つのを忘れ、急遽手にした本です。もう読む気はなかったんですよ、池井戸さん。ミステリーを書こうと五里霧中。視点もキャラも、ストーリーも、料理ができなかったようです。

池井戸潤

「不祥事」

トラブルを抱えた支店を回って業務改善を指導する花咲は、事務と人間観察の名手。歯に衣着せぬ言動で、歪んだモラルと因習に支配されたメガバンクを蹴り上げる。ベテラン女子行員はコストだよと、うそぶく石頭の幹部をメッタ斬る。

銀行の固いシステムと行員の曖昧さに、メスを入れる痛快さが心地よかったです。現実にはあり得ませんが。

池井戸潤

「銀行総務特命」

帝都銀行で唯一、行内の不祥事処理を任された指宿修平。顧客名簿流出、現役行員のAV出演疑惑、幹部の裏金づくり。スキャンダルに事欠かない伏魔殿を、指宿は奔走する。腐敗した組織が、ある罠を用意しているとも知らずに。

孤軍奮闘の一行員で解決できるのは、目の前の部分だけです。結局は上部の思惑通りに動いたことになり、待っているのは人事異動ですね。やるせない現実です。

井上尚登

【キャピタル ダンス】

「ビル・ゲイツを振った女」というレッテルを貼られ、林青(リン・チン)は日本での3度目の起業に苦労していた。

『タコボール』という検索エンジンを開発し、プレゼンテーションを続けていたが出資先が決まらないのだ。彼女の力を利用、あるいは怖れている者たちからのさまざまな陰謀が動き出す。

ベンチャービジネスの本はいろいろあるが、独自の姿勢を貫こうとする女性の、卓越した力で現実の夢をかなえようとするものは少ないです。日本の業界をうまく描いています。うまく泳ぎきれるか、と最後までおもしろく読ませてくれます。

ただ検索エンジンとその先の開発の説明が平板なことが、残念です。男性が書く女性としても力闘なだけに。

池澤夏樹

【カイマナヒラの家】

池澤夏樹の世界は、とても居心地がいい。そのなかにゆらりとたゆたっていたい。上質の時間を味わえます。

パイロットが急ぎの品を届ける途中、恋人と会って遅くなってしまう。大切な神の儀式に使うレイの花だった。怒りにふれた彼は、永遠に飛び続けることになる。地上には二度と戻れない...。

こんな書き出しで始まる池澤の世界。たくさんの写真のページがあり、空と海とがこんなに広く遠いものだったかと、思わずにいられない。日常からほんの少し踏み出したような夢の世界です。

池上永一

「統ばる島」

祭の島、竹富島では、女は踊り男は狂言を舞う。最南端の波照間島では、さらに南にあるという、伝説の楽園を目指す娘がいた。八重山諸島の八つの島々にはそれぞれ異なる色、唄、物語がある。そしてすべてはひとつに織り上げられていく。

何年ぶりかで手にした作家の本です。うまいですね。島に息づく伝統と神との繋がり、異世界、不思議な力。古語となった島の言葉での歌や祈りが入り、島の特有の空気を作り出しています。8章の物語がラストでゆるゆるとまとまる辺りが南国の島の余韻を感じさせます。もしかしたら、現実に八重山諸島に起きそうな、そして特別な島なのだという読後感が心に残ります。

池上永一

【バガージマヌパナスわが島のはなし】

沖縄の方言をうまく取り入れたファンタジイです。

19歳の綾乃は 86歳の大親友オージャーガンマーとのおしゃべりの時間が大好き。仕事もせず、遊びほうけていた。ある日神様がお告げにたち、ユタ(巫女)になれと言う。逃げてばかりの綾乃に神様が怒った...。

ひとつの世界で完結していると思う。欲をいうなら、周りの世界をどう見るかの視点があれば、と少し残念。生の根本がどこにあるか考えさせられました。

岩井俊二

【ウオーレスの人魚】

97年の単行本の文庫化したもの。密かに語り継がれる人魚の神話。

ビリーは海難事故で人魚に遭遇する。高周波を受けながらなんとか捕獲するが、人魚は凄まじい死を遂げる。数年後、大学生密は沖縄の海で遭難し、3ヵ月後奇跡的に救出される。人はかつて海に住んでいたという壮大な進化論を追って、人魚伝説は新しい展開を見せる。

人間は自分の認識できないことを、なかなか受け入れられない。別の世界の生物と人間の共生が、せつないタッチで描かれている。

イッセー尾形

【空の穴】

独り芝居の印象的な作者のイメージを振り払うのに、時間がかかりました。
作品に没頭できると、もうこれはおもしろい世界でした。いろんな人がいて、いろんな考え方があるから生きていくことがおもしろいのだと、エールを送られた気分です。
高校の英語教師を18年もやっている男が、卒業間近かの女生徒3人とロンドンへ旅行に行くことになった。戻った彼を待っていたのは校長室での査問...。「美しき課外授業」
短編ですが、どれも味わいがあります。

稲生平太郎

【アクアリウムの夜】

ぼく・広田は高校生で、高橋と二人でバンドを組んでいる。
ある日、黒テントを張った『驚異の科学魔術』を見に行った。鏡面に映し出された外の光景は、不思議に魅力的だった。だが見慣れた水族館は、地下への階段が口を開けてた。
喫茶店で、良子とぼくたちが『こっくりさん』を始めると水族館で誰かが死ぬと出た...。

高橋が奇妙なホワイト・ノイズにとりつかれ狂っていく。
文化祭や日常の生活が、ふいに非日常へ走り出す感覚が、おもしろいです。構成のバランスの不安定さや、不思議のまま終わってしまうことへの不満は残るものの、読了させる力がありました。恩田陸さんの始めのころと比較しては、酷でしょうか。もう一歩何かがあったら、と思います。

歌野晶午

【葉桜の季節に君を想うということ】

警備会社に勤務し、白金台のフィットネスクラブで体を鍛えている成瀬は、同じクラブの久高愛子から、夫がひき逃げでなくなったと相談される。健康布団などを蓬莱倶楽部から5千万円も購入して、さらに保険金を目当てに殺されたという。元探偵だったことから、その調査を依頼された。

そんなある日、成瀬は地下鉄で線路に落ちた麻宮さくらをとっさに救った。数日後、お礼をしたいとさくらから連絡が入った。事故ではなく、ほんとうは死にたかったのだと言う。成瀬は気持ちが惹かれた。食事や映画を観る付き合いが始まった。若い頃の探偵事務所での仕事を、話したりするうち、成瀬は少しづつ事件の核心に迫っていく。

なんとも古風なキャラにいらだちを感じながら読み進むうちに、別なしかけだったことがわかるという設定でした。う〜ん。うまくだまされるかどうかが、おもしろさ、でしょうか。全体を構成する力はあるし、まあまあという感じです。もう1作読んでみないと、わからない作家さんですね。

歌野晶午

【ROMMY 越境者の夢】

「葉桜の季節に君を想うということ」は一人称で書かれているため、そのまどろっこしさと言葉の古さに退屈をしてしまいましたが、この作品は歌野さんの地と思われる文章で書かれています。文章を書き分けるには、大変な力が必要です。若干「葉桜・・・」を引きずったボキャが気になるところもあるのですが、全体ではうまく切り替えています。イラストや写真も使い、楽しめるしかけがたくさんあります。たぶん、これとあれが伏線だろうと思いながら読んでいきましたが、最後の展開にやられました。う〜ん、これが書きたかったのか。

歌舞伎役者のように厚化粧を施し、熱く歌うROMMYのニューアルバムに、世界的なロック歌手FMことフランク・マーティンから曲がプレゼントされた。さらにコーラスパートを歌う申し入れがあった。スタジオの緊張は否応なく、張りつめいていく。マネージャーの三村、事務所社長の名香野、レコード制作の川端、千早、映像ディレクターの東島たちが待つ中、FMが遅れてくるという連絡がはいり、控え室にいたROMMYの死体が発見される。

警察に連絡をすると、薬をやっているFMも事情聴取され、二度とこのアルバムが世に出ることはなくなる。レコーディングを続行すると名香野は、告げる。

一見、よくある殺人事件のように展開していくのですが、歌野さんはそんな生易しさでは括れないのです。ストーリーとしても読ませますが、音楽に魅せられた人間、利益、愛憎なども、うまく書き上げています。
しかし、この作品の文章自体が歌野さんのひとつのキャラかも知れない。もう1作読まないとわからない作家さんですね。

歌野晶午

【放浪探偵と七つの殺人】

放浪探偵・信濃譲二が、殺人現場にふらりと現れ、さらりと解決してみせる短編集です。

大学の男子寮で殺人事件が起きる。寮生には全員アリバイがあった。殺人を犯してしまった男の心理と、必死の作為が持つ矛盾が客観的には不自然だという点を、さりげなく突いていく。『ドア←→(双方向矢印)ドア』

ピザ配達人が、届け先の女性が殺されているのを発見する。『水難の夜』

結構、まともなでした。歌野さん。

歌野晶午

【ガラス張りの誘拐】

刑事課に勤務する警官・佐原はやさしすぎて、被害者の事情聴取でいたたまれなくなり、ついサウナに逃げ込んでいた。TVでは、連続婦女殺人事件の報道がされていた。新聞社に犯行の声明文を送りつけてきたのだった。佐原は、ふとしたことで知り合った高校の養護教諭・梨花に、事件の話をしてヒントをもらっていた。さらに、犯人に監禁されていた英子という女性が、逃げ出してきた。事件は解決に向かうのか。

二転三転するストーリーに惹かれて読んでいくと、最後に意外な方向に。伏線と思われるものが登場しないまま、巧みに進んでいくのです。う〜ん。ちょっと今回は、わたしは合わなかった感じです。15年も前の作品だからなのか、感覚がどうしても古い。辛口になりました。

歌野晶午

【死体を買う男】

輝かしい作家の過去を持つ細見辰時は、20年ぶりに2重構造の作中作を書き出した。月刊誌に掲載された「白骨鬼」という新人の作が、江戸川乱歩に似ているのだった。出版社のあおり文句は、微妙に作家名を伏せていた。

「白骨鬼」の登場人物は、崖に飛び込もうとしていたところを、同じ宿に泊まっていた塚本に止められていた。その塚本が、同じ場所で首つり自殺をしたという。死体は女物の着物をまとい化粧をしていた。目撃者が警察を呼ぶ間に、死体が消えた。

歌野さんは、この時代設定だと、言葉の古さが生きるのですね。「死体を買う男」を書く歌野さん。その中の「白骨鬼」を描く登場人物。さらにまた・・・。複雑な入れ子細工の描き方が、多少の無理はあるけれど、成功していると思います。おもしろいです。

歌野晶午

【ジェシカが駆け抜けた七年間について】

マラソンランナー・ジェシカはアフリカ出身だった。アユミ・ハラダは同じNMACに所属している11人の一人で、仲よくしている。監督のツトム・カナザワは、日本で複雑な事情があり、アメリカでクラブを作ったらしい。ジェシカはそういうことには関心がなく、レースで勝つことだけが目標だった。

ある日アユミはジェシカに置き手紙を残してキャンプを去り、その後、自殺したと知らされた。監督との間に、何があったのか。

妊娠、ドーピング。絡み合う利害。そしてついにレース中のスタンドの一室で、監督が殺された。

歌野さんの中では、比較的シンプルな描き方かと読み始めたら、思わぬ仕掛けがありました。さすが、やってくれますね。マラソンを材料のミステリーは、初めてです。

海野碧

【水上のパッサカリア】

奈津と湖畔の家で暮らした3年は、大道寺勉にとってかけがえのないものだった。残された犬の面倒を見てくれる獣医師・高畠は借金を負いながら、夜の街で飲み明かす男だった。だが、勉は自動車整備工としての顔と違う顔も持っていた。奈津の死後、かつての裏の仲間たちが現れる。過去に『始末』仕損なった裏の金融を牛耳っていた服部が、奈津の交通事故を指示したのだという。仲間全員が狙われているから、今度こそ『始末』しようと誘う。

硬質な文章が好印象ですが、時系列の混乱で読みにくいです。さらに勉も奈津も登場人物すべてが、空想上のキャラです。背景設定も、手垢にまみれた想像(妄想)でしかありえないリアリティの なさが決定的です。構成も分量のアンバランスが目立ちます。この作家も文章を削れない資質のようです。女性作家が男性一人称で書くことで、違和感を浮き上がらせてしまう典型かも知れません。

薄井ゆうじ

【星の感触】

8年前の新刊で読んだ時以上に、こころに迫ってきました。こんなに哀しい作品だったかしら...。再読できてよかったです。

テ−プリライトを職業にしている良治は、仕事の依頼人の俳優・猫田研一(ケン)と知りあい、奇妙な依頼を受ける。自分のすべてを記録してほしいと。彼は3メートル32センチの世界一巨大な男だった。恋人のニュースキャスター・タマコからも、頼まれる。

ケンはときどき深い眠りに落ちる。その間に彼は『成長』するのだった。しかも、その間に見る夢は不思議な異世界で、いつのまにか二つの世界を行き来し始めた。そして向こうの世界から持ってきた雨を呼ぶレイン・メーカー。一方、ケンの成長は極限にまで...なんと、8メートル。

「普通」からはみ出していくことへの、世間の目と、自分の中の調整。現象は不思議を描きながら、こころを描く薄井ゆうじの作品の中の傑作4部作と思っているうちのひとつ。

薄井ゆうじ

【天使猫のいる部屋】

1991年の新刊を読んでから、これで4回目くらいになるでしょうか。今回は、文庫化で加筆訂正されていました。でも、基本的には変わっていません。コンピュータ環境が変化しているので、そこは違和感なく読めるようになっています。
この胸が痛くなる感じは、何度読んでも残ります。

貝塚さち子から、猫の手のcg画像を依頼された野見山ツトムは、次々とパーツを作成していく。猫の全体像を作る段階で、さち子のパートナーの修・サムと出会う。かつてのゲームソフト製作者だった。調子の悪い大きな体を持つ、実に魅力的な人間だった。ゲームソフト会社ストーンズから、『電子猫』が発売される数日 前、サムは亡くなった...。

喪失感、でしょうか。どの作品にも共通しているのは。あるいは自分の存在を確認するための自傷行為にも似て、ツトムがサムを追いかけていく。その激しさが、少年のようでもあり、胸をひりひりさせるのかも知れません。

薄井ゆうじ

【青の時間】

1995年の新刊を読んでから、これで4回目くらいになります。

自由の女神像を消す。ステージでもその素顔を見たものはいない。<呼び屋>の岩崎ミツルは世界のトップ・マジシャン『ブルー』を日本のcm出演というとんでもない交渉のためにシカゴに向かう。途中、思いがけず妹の奈奈に止められる。なんと、『ブルー』が会いたいと言っているというのだ...。

真っ暗な部屋でブラックライトを受け、サングラスをかけた男は「冬のカブト虫を覚えているか?」という。それは、ミツルが中学の時の思い出につながった。

魔術団の演出家小倉の指揮によって、とんでもない日本公演に向かって走り出す...。

名声、お金、人脈、そしてマジック。すべてを手に入れているように見える男が、手に入れられないものへの渇望。あるいはやはり、失った何者かへのアンソロジイ。

奥泉光

【鳥類学者のファンタジア】

そこそこのジャズピアノ弾きの霧子(フォギー)は、いつものように眉をぴくぴくさせ、髪を振り乱してピアノに向かっていた。その 演奏を、店の柱の陰から見ている人の気配を感じる。気にしながらの演奏はなぜか、ひさしぶりに盛り上がりを見せる。

霧子は黒い影を追いかけて行く。「オルフェウスの音階」「ピュタゴラスの天体」という、謎の言葉を求めドイツへ。そこで不思議な時間帯へと飛ぶ。

奥泉のまわりくどい文章はデビュー作でもそうだったが、相変わらず読みにくいのに、不思議に惹き付けられる。音楽と宇宙。おもしろい世界を書いています。

乙一

【死にぞこないの青】

5年生のマサオの新しい担任は、若い男の羽田先生になった。サッカーができるので人気があった。ただ、マサオはサッカーがだめだった。なんとか気に入られようとしたことが、裏目に出た。なにかにつけて注意されるようになった。

「マサオくんがあくびをしたので、あと10分延長ね」と、先生はマサオのせいにした。「マサオくんが悪いから宿題を出す」次第にエスカレートしていき、クラスメートまでもがいじめだす。

まるで人形になったみたいなマサオの前に、「アオ」が現れた...。

こんなに悲しい作品を、読んだことがありません。普通のいじめとも違う精神的な苦痛に、一緒に苦しくなりました。結末で、救われました。よかった。でも、この作家の心の中の淵をのぞいてしまった気がします。ホラーと、ジャンル分けすることとは別のこわさがあると思います。

大江健三郎

【大江健三郎・再発見】

久しぶりの大江の文章は、ミステリーやファンタジーに漬かっている思考回路を切り替えるのが、実に大変な作業でした。電車の中で読む、という本ではないので深夜、その日の最後の時間を大江と過ごすというふうでした。一日の思考を点検することにも似ていました。

「飼育」からずっと読み続けて、ほんの少しわたしの生き方と重なる部分があり(だいそれたことに)、わたしの思考・思索を展開していくはるか先に見える、かすかな灯台の光ように親しみを持ってきていました。

この本は、いままでの大江の、変化しながら進んできた文学と生き方とを総ざらいするいい機会になりました。「書き下ろしエッセイ」「座談会」「シンポジウム」「資料」から構成されて、これから読んでみたい人のための案内書にもなると思います。

大江健三郎

【取り替え子--チェンジリング】

自殺した映画監督吾良から生前に送られたカセットテープ30巻。吾良が語りかけるテープを一時停止して、古義人は答える。またテープを回す。止めて答える。

自らの意志で向こう側へ行ってしまった吾良を、理解しようとする中で、彼の妻と古義人の妻へのより深い認識を持つようになる。

「最後の小説」からかなりの時間が経過して、書かれた小説である。しかし、最初の数行でたちまち大江の世界に引き込まれていった。向こう側との、あいまいさ。わたしの中にある思考をもあぶり出されていく。

初めて読む方は、ちょっと大変かも知れない。でも、大江のおもしろさを知ってしまうと、日本にはこういう作家はいないことに気付く。

小野淳信

【碧落の賦】

1940年、医学部の卒業も近い岡田は看護婦の恵美と出会った。だが二人の間は、恵美がアイヌの生まれを気にかけていたため妨げとなっていた。そんなとき岡田に召集令状が届き、中国の満州に赴任することになる。赴任の直前にようやく夫婦になる約束をし、心を残しながら出発する。やがて終戦を迎え、ソ連兵に「ダモイ・トウキョー(東京に帰還する)」と言われながらシベリアに収容された岡田は、極寒と飢餓、そして人としてのプライドに苦しむことになる。一方で、恵美は岡田の子を出産し育てる苦労に毅然として立ち向かっていた。

たまたま鏑木蓮「東京ダモイ」を読んだ後に、贈呈された本でした。小説の形式を取りながら、体験者でなければ書けない事実の重みが交叉しています。なにより一気に読ませる、文章の力強さと筆致に驚かされます。筆者は95歳での、初めての小説なのです。戦争への思いや、さまざまな差別への視線や、読者に伝えたい熱い思いが、あふれてくるようでした。たくさんのテーマを詰め込み過ぎた嫌いがあり、その時代の人でなければわからない表現もあります。それでも、こんな風に生きてきた人がいるという歴史の重みが胸を打ちました。

小笠原慧

【手のひらの蝶】

マンションの住人からの通報を受けて警察官が部屋に入ると、ハンマーで一撃されながら失血した真下(ましも)家の母親の死体と、引きつけを起こしている9歳の裕人を発見した。手には血の付いたアイスピックを、握ったままだった。児童福祉センターに収容された裕人を、児童精神科医の小村伊緒が担当することになった。カブトムシで心を開かせ始める。同じ頃、連続吸血殺人事件が起き、西澤と藪原刑事は多忙を極めていた。

しっかりした資料に裏付けられているとは言え、どうもリアリティに欠けるのはなぜでしょう。原因の虫にたどり着く過程もありきたりで、結末はでき過ぎてる感が残ります。

小笠原慧

【DZ ディーズィー】

ペンシルベニア州で夫婦の死体が冷蔵庫で発見された。5歳の息子は行方不明だった。周囲との接触を嫌っていた夫婦だったため、目撃情報もなく、スネル警部たちの捜査は難航し、犯人逮捕には至らなかった。数年後、分子遺伝学研究所では突出したグエンという研究者が、次々に論文を発表していた。
重度障害施設に赴任した涼子は、グエンのいる学研究所に留学している恋人・石橋が、謎の死を遂げたことを乗り越えようとしていた。凶暴性があり保護室に閉じ込められていた少女と、なぜか気持ちが通うのを感じた。

2作目ですが、小笠原さんの専門分野を小説にする力はあると思います。ただ文体にこだわりがなく、建て増しをしていく建築物のように、ストーリーの都合に合わせた設定が、気になります。伏線としてあるべきものが、すぐ答えを想像させてしまうのは、ミステリーとしてはどうでしょうか。人間の進化という題材がおもしろいだけに、料理の仕方が口に合わないのは残念です。

小野真由美

【龍の黙示録】

思いがけない高収入のアルバイトを紹介された柚ノ木透子は、北鎌倉へ向かった。宗教学者の龍アキヒコの、書籍の分類とデータ化が仕事だった。

古い洋館にはサングラスの龍と、メイドのライルだけだ。妹のように思っている高階翠が心配するのをよそに、透子は仕事をした。だがある夜、龍の留守に透子は奇妙な動物に襲われる。

元のバイト先のマネージャーの城、ゼミの助手で翠のあこがれの灘博美が関わり、新しいドラキュラ伝説が展開する。

小野不由美さんに続き、また吸血鬼ものになりました。誘われているようです。漫画を見ないわたしには、イラストがない方がイメージを膨らませて楽しめたのに、ちょっと残念です。

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